遅咲きの金戔花02
「ごめんね。マサトはよく物を落とすんだ。それに本人が気付くまでに時間がかかるから余計ショックを受けちゃうんだよ。人柄が変わるほど。今日はたまたま別のショックが重なってて、相当変なこと言ってたけど……」
「違うの」
シンジの説明を女の子は遮った。よく通るアルトだ。
「財布に名前が書いてあったでしょ?」
マサトは物を落としても誰かが拾ってくれるかもしれないからと、必ずどんな物にも欠かさず名前を書いている。もちろん財布にも。革製の格好良い財布が台無しだけど、誰の物かも分からないままパクられたらたまったもんじゃない。
「女の子かと思ったのよ。『真里』って。『まり』ちゃんかと思ってたの。そしたら……」
急に声は細くなった。
「友達に、なりたかったのに」
僕とシンジは内心ドキドキした。名前の漢字で女の子と間違われることをマサトは一番嫌っていた。中学時代に名前のことでからかわれ、ここらで最凶のヤクザを返り討ちにしたという伝説もあるほどだ。もっとも、こんなしっかりした女の子は、そんな話とは無縁なんだろうけど。マサトが目を覚ましていないか確認すると、僕は言った。
「君の名前は?」
「……伊藤、千笑子」
「ふんふん、千笑子ちゃんか。名前のことでなにか言われたら嫌だろ? 例えば君なら『チェコ』とか。私は国じゃないわ! って思うだろ? それと同じでマサトも気にしてるんだよ。だからあいつにその話はしないでくれよ。さ、もう帰った帰った」
「ちょっと、なによそれ!」
千笑子ちゃんは机を叩いた。
「わざわざ拾ってあげたのに、ありがとうも言えないの? 邪見に扱ったりしちゃってさ。もう知らないんだから。またなにか落ちてても拾ってあげないんだからね!」
そう叫ぶと、呆気に取られている僕とシンジを睨み、飲みかけのコーヒーを持って出て行った。
しかし、次の日。僕らはまた千笑子ちゃんと再会していた。やはり雨は止まなくて、ますますおかしくなったマサトは、今度は携帯電話を落としたのだ。部室に届けるなり、千笑子ちゃんは言った。
「落とさないでよ」
「拾わなきゃいいじゃないか。もう拾わないって言ってたし」
僕の指摘を受け、千笑子ちゃんは顔を真っ赤にした。ちなみに、マサトは携帯電話にも名前シールを貼っている。
「仕方ないじゃない、落ちてるものを見たら無意識に拾っちゃうのが癖なんだから!」
また次の日はやっと晴れたけど、じめじめむしむししていた暑かった。そのせいかマサトは煙草を吸う気分になれないでいた。名前シールを貼っているライターを落としてしまった。放課後にはやはり千笑子ちゃんが届けに来てくれた。
「千笑子ちゃんも毎日暇そうだね」
「違うわよ! 落ちてるから拾っちゃうの。名前が書いてあるから届けなきゃならないはめになるの! あんた達こそ、毎日暇そうじゃない」
僕らは焼き肉代のためにバイトをしなければならなかったが、校長は焼き肉は好かないとの情報を聞き、バイトは取り止めた。おかげで毎日暇だったが、千笑子ちゃんを迎えなければならない日々が続いているというわけだ。
「今日も来たんだ」
購買にパンとコーラを買いに行っていたシンジが、千笑子ちゃんに挨拶をした。
「いつもありがとうね!」
シンジがにこやかに言うと、
「別に私の気がすまないからしてるだけだもん。あんた達の友達のことなんて知らないわよ!」
と、お決まりの台詞を真っ赤になりながら吐き捨て、さっさと帰って行った。シンジは去り行く千笑子ちゃんに手を振っている。いつの間にかコーラはシンジの手の中から彼女のそこへ移動していたが、教えるべきだろうか。僕はそれに気付いた時のシンジの反応を想像して笑い転げた。
「千笑子ちゃんって何者なんだろうね」
パンを咥えたままシンジは言った。
「マサトの落とし物拾い係?」
連日の雨で未だに煙草が吸えず、生きた屍と化したマサトは、机に顔を伏せたままなにかぶつぶつ唱えていた。千笑子ちゃんが物を届けに来ても、というか、僕とシンジが声をかけても聞こえていないから、落とし物の届け主には会ったことがなかった。
「放課後は見るんけど、それ以外では会わないよね」
言われてみれば、普段の学校生活の中で千笑子ちゃんを見掛けることはなかった。スリッパの色からして同じ一年生だろうけど、何組かまでは分からない。というか僕等は他のクラスに知り合いなんかいない。
「見てくれよ。俺の心はマッカーサーのように真っ赤ぁさぁ!」
マサトが白目を向けながら叫んだ。どうして真っ赤なのか気になったが、聞き返しても会話が成り立たないことは分かりきっている。こんな精神状態で学校に来るマサトってなんなんだろう。
「雨、止まないね」
最後の一口を口内に放り込み、シンジは窓の外を見つめた。僕も目線を同じ場所まで持って行って、頷いた。雨が止まない限り、湿度は下がらない。湿度が下がらない限り、マサトは煙草が吸えない。マサトが煙草を吸えない限り、マサトは正常に戻らない。マサトが正常に戻らない限り、《青春部》は活動が出来ない。
「暇だねー……」
犬のような欠伸。僕は少し笑ってしまった。シンジは恥ずかしそうに、口に手を当てた。
「千笑子ちゃんのことでも探ってみる?」
僕がなんとなく漏らしてみた提案に、シンジは餌を与えられた犬の如く食いついた。目が突然キラキラ光り出したのだ。確認の言葉なんていらなかった。僕とシンジはマサトを残した部室に鍵をかけ、傘をさしながら外へ出た。
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