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薄氷を履む
奴隷と軍人
その日もオリバーは飽きもせずに読書にふけこんでいた。
今日読んでいるのはミステリー小説で、話の舞台は古びた洋館での殺人事件。
嵐の夜に、晩餐会に招かれ、閉じ込められた客人たちが一人一人殺されていくという、まぁよくある手のストーリーだ。

嵐とは行かないまでも、実際外の天気も雨模様で、パタパタと雨が窓を打つ音が響いている。
なんだか本当に自分がその洋館に入り込んだようで、オリバーは手に汗を握りながらページをパラ、と捲った。

洋館の一室で暖炉を取り囲むように集まる客人たち。
いかにして生き延びここを脱出するか、取り留めもない議論が交わされる。
客人たちの間に流れる剣呑とした緊張感は最高潮に達していた。

そのとき――飲み物を淹れてくると、主と連れ立って席を外した女主人の「キャアアア」という悲鳴が、

「ギャアアアアアア!!」

悲鳴が、きこえ、……?

物語に没入しすぎてついに幻聴まで聞こえはじめたか、と一瞬自らの異常を疑ったオリバーだったが、あまりにリアリティあるそれに、恐らく異常なのは現実の方であろうと思い直し、パタンッと本を閉じた。

早鐘を打つ心臓を抑え、耳を澄ませる。

遠くから聞こえる叫び声、バタバタという忙しない足音。
この館で、何かが、起きている。

人生で初めて経験する不穏で異質な空気に、オリバーはどうかこれが夢であってくれと願った。
しかし、願ったところで現実は変わらない。
であるならば、オリバーには成すすべが一つとしてなかった。

不意に、窓を打っていた雨の音がパタリと止む。
代わりに聞こえてきたのは、パキパキと氷が張る音だった。
ギョッとして窓に目を向ければ、まるで極寒の冬の日のように、ガラスがびっしりと氷に覆われてしまっている。
しかし、季節は春。明らかに自然現象ではない。
とすれば考えられるのは、エルフが持つ"自然の力"に違いなかった。

オリバーは、これまで脳みそに蓄えてあった知識を懸命に引っ掻き回した。
しばらくして、パカッと、彼の頭の中でひとつの引き出しが開いた。
エフィリアに存在する"氷使い”は希少種と言われ、ある貴族の家系のみがその力を有していると、何かの歴史書で見たような気がする。

その一族が、いきなり襲ってきたのだろうか。
貴族同士のいざこざはオリバーにはよく分からなかったが、実際こんなことになっているのだから、色々としがらみがあるのだろう。

冷気と恐怖でカタカタと震える体を抱きしめ、部屋の隅に蹲る。
隠れる場所などない、いずれ見つかってしまう。
見つかったらどうなるのだろうか。
殺されるか、捉えられて拷問されるか、何かもっと酷い未来が待ち構えているのか。

そうやってひとり恐怖に打ち震えていると、バタン!と勢いよく書斎の扉が開き、領主が足をもつれさせながら部屋に転がり込んだ。
オリバーは心臓が止まったような心地がした。
いっそそのまま止まってくれた方が楽だったかもしれないとすら、頭の片隅で思う。

領主は瞬時に彼を視界に捉えると、恐ろしい形相で彼につかみかかった。
彼は「ひっ」と短く悲鳴を発し、引きずられるままに立ち上がった。
主人の右手には、大ぶりの包丁が握られている。

攻め入ってきた敵の貴族に殺されるならばまだ話はわかるが、なぜ領主に殺されそうになっているのか、オリバーは理解が追いつかなかった。
その上、領主が彼の背後に回り込んで首に包丁を突きつけたことも、扉の先に見えた人影も、彼の予想打にしないものであったがために、余計に彼を混乱させた。

オリバーの視線の先、書斎の扉の向こうには、一人の”人間”が佇んでいる。
漆黒の軍服に身を包む見目の整った青年は、透き通るようなアクアグレーの瞳を僅かに眇めた。

オリバーはついこの間雑誌で見かけたばかりの似顔絵と、目の前の青年の顔を脳内で照らし合わせ、あの似顔絵は存外精度が高かったのだと思い知る。
今さら確認したところで、どうしようもない事実であった。

青年の右手には、赤黒く染まった刀が握られている。
腰には2本の鞘が携えられており、1本の刀身は鞘に収まったままだった。

「それ以上近づいたらこれを殺すぞ!!」

オリバーのすぐ耳元で領主の大声が響き、首筋に包丁が触れる。
刃を当てられた箇所に、ツキンとした痛みが走った。
オリバーは先程から激しい震えが止まらなかった。
いよいよ殺されるのだと、覚悟もできないままに現実を突きつけられる。
同じ現実を突きつけられているであろう領主の手も、酷く震えていた。

青年は無言のまま、しかし真っ直ぐ領主とオリバーを見据える。
氷のように、凛とした怜悧な目だった。

「人間の命が欲しければ出ていけ!」

領主が追い討ちのつもりで放った言葉とは裏腹に、青年が一歩ずつ、オリバーたちにゆっくりと近づいてくる。
あまりに毅然とした歩みだった。

「おい!殺すと言ってるんだぞ!?」

領主の脅しに、青年は小首を傾げる。
この場には到底不釣り合いな、間の抜けた仕草だった。
薄桃色の唇が無造作に開かれ、耳触りの良い声が、遠くからオリバーのと領主の鼓膜を震わせる。

「殺してどうすんの?」

「は…?」

「お前がそいつ殺したとするじゃん。そのあとお前は確実に死ぬじゃん。…脅す意味ある?」

青年の顔には「全くもって理解できません」と書いてあった。
いや、そんな上品な言葉ではなく、「お前バカ?」ぐらいの低俗な文字列であるかもしれない。

「なに、を…。」

「人質になってねーって言ってんの。俺らの目的は人命救助じゃないんだから。」

どう足掻いても確実にお前の負けだと言い換えられる青年の傲慢な物言いは、しかし事実こうして命のために人質を取っているのであるから、どちらに軍配が上がるかは推して知るべしであった。

それは領主も十分に頭ではわかっているのだろうが、彼の生存本能は、まだ諦めるには早いと、逃げ道を必死に探しているようである。
またもやオリバーの耳元で、怒声が響いた。

「じゃあこいつが死んでもいいのか!?」

「よくはないけど。人質は助かってお前は死ぬか、人質もお前も死ぬか、二択ってハナシ。」

青年は何も感じていないかのごとく、終始表情を変えなかった。
否、実際何も感じていないのかもしれない。
何故なら、話す間も一切歩みを止めなかったからだ。

いつの間にか青年は、二人の5歩先まで迫っていた。

その逼迫した状況を前にして、領主はついに正常な判断を下すことが叶わなかった。
――ここでいう”正常な判断”というものが存在したかは、別問題として。

「うあああ来るなあああ!!!」

オリバーを殺すために、領主は大きく包丁を振りかぶった。
オリバーは咄嗟に死を覚悟し、目をギュッと固く瞑る。

「っ!!」

しかし、オリバーが予想していた衝撃は訪れず、代わりにガキンッという金属と金属がぶつかる音が響いた。
次いで、後頭部から背中にかけて、生暖かい飛沫がふり注ぐ。
ぶわりと鼻腔を蹂躙する鉄のようなニオイ。
背後で、ドサリと人が倒れた音がした。

オリバーは、事態を全くもって飲み込めないまま、痛いくらいにバクバクと鼓動を刻む心臓を押さえ、恐る恐る目を開く。

「あー汚した、悪い。」

目の前には、先程の青年の姿。
一つ違うのは、白皙の頬にベッタリと付着した”赤”であった。

オリバーはようやく、自分の命がこの青年によって救われたことを理解する。
それと同時に、陶然と、目の前の軍人にすっかり目を奪われてしまっていた。

男ながらに容姿が端麗なのもあるだろう。
長いまつ毛に縁取られた形の綺麗な目、すっきりと通った鼻梁、程よくふっくらとした艶のある唇。
グレーアッシュの髪は、絹糸のように細く柔らかい質感であることが見て取れた。
近くで見るほどに、全てのパーツが作り物のように整っている。

しかし、オリバーはそれだけではない気がした。
何か、この軍人の存在そのものが、稀有な宝石のように、底知れない雰囲気を纏っている。

深海と蒼穹を同時に彷彿とさせる清澄で倒錯的な瞳に、オリバーの影がゆらりと映り込んでいた。
ああ、自分は助けられたのではない、この瞳に囚われたのだと、ありもしない幻想に束の間、浸る。

「安全なとこ連れてくからついてこい。」

些かぶっきらぼうに紡がれた声も、軍人とは思えぬほどに婉麗であった。
扉の方にふいと顔を背けた青年の左耳朶には、彼の瞳と同じ色の宝石が埋め込まれている。

「……あ、なた、は…?」

何者なのか――。

雑誌で見たから知っている。
たしか、クロフォードという名だった。
ファーストネームまでは覚えていない。

しかし、そういうことではなかった。
大粒のダイヤモンドを指さし「これは何ですか」と聞かれ、馬鹿正直に「ダイヤモンドです」という商売人はいない。
そのダイヤモンドの価値は如何程かと、指さす人は問うているのだ。

青年はオリバーに視線を戻すと、大きな目をパチクリと瞬かせた。

「――ん?トリアスタの軍人。メディングの奪還と、奴隷を解放しに来た。」

なんと返ってきたのは、「石ころです」という答えにもならない答えだった。
オリバーは酷く落胆する。
落胆し、ようやく、そういえばと自分の身を案じた。

「これから、どうなるんですか。」

死の恐怖から解放された彼は、今度は未来が見えない恐怖に溺れそうになった。
この館で奴隷として生きていく人生しか、彼は知らない。
その人生を、前置きもなく唐突に否定され、なんだか体丸ごと宙ぶらりんになったような心地がした。

今度は、青年の瞼がゆっくりと一度、瞬いた。

「奪還宣言したら一斉に伝えるけど、簡単に言えば、人権が得られる。」

穏やかに告げた青年の瞳に、初めて温かい色が宿った。
包み込むような、慈しむような、そんな柔らかい色だ。
恐らく自分よりも若かろう青年の見せるどこかチグハグで歪な面持ちに、オリバーは自分が”人間”であることを漠然と、幸運に思った。
そんなことを思うのはオリバーも初めてだったが、もし自分がエルフであったならば、先の冷たい目しか知らないまま死んでいたのだ。

青年の言葉を、奥歯で噛み締めるように、殊更ゆっくりとなぞる。

「じん、けん…。」

――とは正に、この青年から向けられる慈悲そのもののような気がした。

「そ。悪いけどあんま話してる暇ねーんだわ。行くぞ。」

ひらりと身を翻した青年を、オリバーはいまだに震える足を無理やり動かして追いかけた。
夢の中を泳ぐように、足元がぐらぐらと揺れていた。







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