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薄氷を履む
邂逅A
氷は間もなくして、屋敷の壁面全体を覆い尽くした。
これは彼の十八番の戦法で、標的を簡単に袋の中の鼠にしてしまえるとあって、敵の中にレイを下せるほどの手練がいなければという条件付きで、ほとんど必勝法とも言えた。

事前の役割分担で、レイが最上階の三階から、他の兵士たちが一階から担当することになっていたので、レイは進路の敵を片しながら玄関ホールを突っ切って、緩やかなカーブを描く階段をタンタンタン、と数段飛ばしに駆け上がった。

彼がまず一番に目指すのは、他でもないこの屋敷の持ち主、ジャコブの寝室である。
結局この屋敷のエルフを殲滅することに変わりはないのだけれど、組織の末端が一人死ぬより最上位者が死ぬほうが、同じ “一” でも組織に与える影響は段違いであった。
彼はそういう、効率的で合理的な戦い方を好んだし、長丁場になる戦ではそれが定石でもあった。

レイは諜報部隊から事前にもらっていた屋敷の見取り図を頭に浮かべ、階段を上がり切って左手最奥まで一気に突き進むルートを描きながら、最上階のフロアへ足を勢いよく踏み入れた。

その瞬間、
「ああ、嘘だろ!よりによってクロフォードが来やがった!!」
怒声が、そう遠くないところから聞こえてきた。
レイは自分の名を知られていることにふと引っかかりを覚え、左手に向かおうとした足を止め、声が聞こえてきた右手へと方向を変えて進んだ。

一室の扉が無防備にも開け放たれて、恰幅のいい男のエルフの後ろ姿が晒されている。
どうやら誰かと会話をしているようである。

「トリアスタの氷使いなんてクロフォード以外に誰がいる!?」

男の肩はワナワナと震えていた。
隣国の軍の事情にある程度詳しくて、贅肉を蓄えられる身分で、中年。
あ、こいつだな、と思った。

「クソ、もうお前は知らん、一人で逃げる!こうしてる間に奴が来たら殺されちま――」

レイの両手に握られた一本の刀が、吸い込まれるように男の背中に突き刺さった。
男の体が強ばって、レイが刀を抜き去るのと同時に、毛足の短いカーペットにゴロンと転がる。
レイは部屋の奥に、男と会話をしていたらしいエルフが佇んでいるのを視界の端に入れながら、男の肩をブーツの先で蹴り上げ、覗いた顔面の特徴をさっと眺めた。
鉤鼻に出来た疣と唇の右下にある黒子から、間違いなく、ジャコブ本人だと判る。
諜報部隊から聞いたところによれば、彼はホブから逃げ出すために多額で護衛の募集をかけていたというので、まさかこんな扉を開け放った先にどうぞ殺してくださいと言わんばかりに背を向けているなんて、拍子抜けもいいところだった。
こういうときレイは、張り合いがなくなったと興醒めするような質でもないので、それはそれで好都合とだけ思って、死体を軽やかに跨ぎ、部屋の奥に佇むエルフに視線を向けた。

そして思わず「ん?」と声が出た。

視線の先のエルフは、大柄で体格がよい男だった。
髪は短く、アッシュブロンドと黒の混合。
鍛えられた体と動きやすそうな飾り気のない衣装を纏っているところを見るに、恐らくジャコブに多額で雇われた傭兵に違いない。
そんなことはどうでもよかった。
問題はその男の形相である。
男はじぃっと、怨憎愛楽の感情をどろどろに煮詰めたような黒っぽい何かを顔面に乗っけて、レイを見つめていた。
レイは咄嗟に、この男と以前どこかで出会っただろうかと、束の間記憶の海を泳いだ。
そうでなければ、こんな表情を向けられる理由がわからなかった。
けれども、さほど間を置かずして、彼は男と間違いなく初対面であることを悟る。
なぜなら彼は、これまで出会ってきたエルフは一人残らず殺しているからである。

向けられるのが怨憎だけならば話は単純だった。
会ったことがなくても知らぬ内に親族を殺めている可能性は十分にあったし、“トリアスタ人” 、もっと言えば “人間” という種族にまで抽象度を上げたって、赤の他人を怨むことは簡単である。
実際、これまで初対面のエルフに身に覚えのない恨み言を吐かれたことは数しれない。
ところが愛楽というのはそうもいかないうえに、怨憎と共存し得るなんて、彼の浅い人生の中では見聞したことがなかった。

だから彼は一度否定した仮説を改めて引っ張り出す他なく、「昔どこかで会ったことある?」と、まるで女を引っ掛けるための安い文句みたいな言葉で、そう聞くしかなかった。
むしろそう聞かせるためにこんな顔をしているのではないかという疑念すら芽生えたところで、男はピクリと眉を片方はね上げ、「ねェよ。」と一言で、あっさりと切り捨てた。

レイは初対面だと思っているし、男もそうだと言う。
ならばきっとそれが真実だった。
じゃあそのツラは何なのだ。

レイは段々苛苛してきた。
元々気が長い質ではない。
相手が自分を憎んでいようが好いていようが、殺してしまえば無である。
それでいい、と思った。

結論を出したレイが男に向かって足を踏み込もうとしたとき、計ったかのように男が口を開いた。

「アー、オレあんまオマエと殺し合いしたくねェんだけど、見逃す気ねェ?」

あっけらかんと言い放った男は、腰に携えられた短剣の柄に手をかける。
レイは眉根を寄せた。
まるで矛盾しているではないか。
言っていることとやっていることも、深厚な表情と軽薄な口調も、すべてがどこかチグハグだった。

「こちとら仕事でやってんの。俺の気ひとつでどうもこうもならねーよ!」

いよいよ癇が高ぶったレイは足を大きく踏み込み、素早く男との間合いを詰める。
男がするりと短剣を鞘から引き抜いた。

レイは、トリアスタ軍の中でも、少ない手数で敵を殺すことに長けている。
基本的に狙うのは首か心臓で、一発で仕留めるために描くべき太刀筋は、相手と対峙すれば自然とすぐに見出せた。はずだった。
ところがこの男、相当腕が立つようである。
構えているのは短剣一本の癖に、首も心臓も、直接狙うには余りに隙がなかった。
ならば初手は隙をつくるところからだと、レイが右下から刀を薙ぎ払うと、男は短剣でそれをいなし、その衝撃を利用してレイの左側へ大きく跳び退く。
間合いを取られる前にレイも同じ分だけ跳び、今度は一際深く左側から切り込んだ。
切り込むほんの一瞬、男の意識がそこに集中する間、レイは左手で、鞘に収められているもう一本の刀の柄に手をかけた。
キィィンッと鋭い音がし、男の短剣が今度はしっかりとレイの振るった刀を受け止める。
それと同時に、逆手でもう一本の刀を素早く引き抜いたレイは、まったく無駄のない軌道で、男の右太腿を貫いた。

「ぐ…!」

男の顔が歪んで、苦鳴が漏れた。
傷口から鮮血が少量吹き出し、男の重心がぶれる。
レイは左手に握った刀を男の腿から抜き去り、そのままの勢いで首筋目掛けて振り払った。
確実に入ったと思ったが、男は身を捩ってすんでのところでそれを躱し、バランスを崩して床に転がった。
なるほどこれは、多額で雇われているだけある、とレイは感心する。
男は本当にレイと殺し合うつもりがないらしく、防戦一方の構えだったので攻めるに容易かったが、もし男が明確に殺意を持っていたなら、それなりにいい勝負になっていたかもしれなかった。

そのとき、ふと、背後の扉付近に人の気配を感じた。
班員がやってくるには早すぎる――ということは敵に違いなかったが、男を殺してから振り向くのでも充分間に合うと算段をつけた。

レイは起き上がろうとする男の右手を、握られた短剣の柄ごと左足で踏みつけ、腰を落とす。
そして右手の刀を、首を断ち切るという明確な意図を持って、左から勢いをつけて振った。
もう逃げ道はない。
これがとどめの一撃になることは自明だった。

ヒュンッ――――

ぴたり。

刀が止まった。
見えない壁に遮られるように、男の首からわずか小指一本程度の隙間を開けて、レイの刀は静止していた。
男は驚いたように切れ長の目を見開いて固まっている。
レイの目が、一点に釘付けになっていた。
首筋の少しだけ上、エルフ特有の尖った耳、その耳たぶに光る宝石は、レイの瞳と同じ色をしていた。

「お前……そのピアス、どこで――」

言いかけたところで、レイはすぐ背後に殺気を感じた 。
扉の辺りに感じた敵の存在を一瞬忘れていたことに、はたと気づき、心臓がキュッと縮こまる。
咄嗟に後ろを振り向くと、心臓目掛けて突かれた槍が、眼前まで迫っていた。

間に合わない――俄に死を覚悟したそのとき、彼の右腕を、強い力がぐんと引いた。
体が大きく斜め後ろに傾き、槍の先が左肩を掠めた。
レイは反射的に左手の刀で槍を払い飛ばすと、素早く体を起こし、彼を殺そうとしていたエルフの心臓を貫いた。
刀を引き抜くと、既に息絶えたエルフは血を噴きながらくずおれる。
その身なりから、恐らくジャコブの身を案じてやって来た警備兵だった。

束の間、沈黙が落ちる。

レイは細く息を吐き出して、ゆっくりと振り返り、彼を助けた男を怖々とした面持ちで見下ろした。

「お前、なんなの。」

ぽつりと、一言、譫言のように呟く。
自分を殺そうとした人間の命を助けた男も、隙を見せてそんな男に助けられた自分も、信じられなかった。

男は切れ長の目をゆくっり瞬かせると、床に手をついて上半身を起こす。

「……このピアスは、アリシアからもらった。」

男が口にしたのは、一つ前の質問への答えだった。
レイは息を飲み込む。
こんなところでその名を聞くことになるなんて、到底、想定していなかった。

「……。」

レイは無言で男の前に跪き、両手の刀を床に置いて、ウエストポーチから布切れと包帯、それから止血剤を取り出した。

「ア?何するつもりだ?」

狼狽えたように声を上げた男に、レイは視線を手元に落としたまま「お前を生かす理由ができた」と答えた。
そうして、先程自分が付けた太腿の傷に、手際よく応急処置を施していく。

「この後お前を残してこの部屋の扉に氷を張る。それが解けたら、ジャコブの寝室へ行って、本棚の後ろの隠し部屋でじっとしてろ。夜になったら、戻ってきて声をかける。午後に掃除の奴らが屋敷に来るけど、絶対に出てくるなよ。」

「……結局、お前の気ひとつでどうにかしてくれンの?」

レイは押し黙った。
軍人として許されないことをしている自覚はあった。
敵を生かすだけに留まらず匿おうとしているこの行為は、トリアスタでは斬首刑に値する重罪である。
彼は普段、規則や規範を遵守する人間で、特に戦場に私情を持ち込むなど、何があっても許されるべきではないと思っていた。
これは彼が初めて、軍人としての自分よりもレイ・クロフォードとしての自分を優先した瞬間に違いなかった。

「うちの隊員誰か一人でも傷つけたら、殺す。あと別に逃げたきゃ逃げてもいい。それでうちの隊員に見つかって勝手に死ね。」

「生かしたいのか殺したいのかどっちだよ。」

「どっちもだよ。」

レイは巻き終わった包帯の端をギュッと固く結ぶと、床の刀を拾って立ち上がり、男を見下ろした。

「――母さん、今どうしてるか知ってる?」

男が、ゆっくりと一度、目を瞬く。
仄暗い哀惜の色が、金色の瞳に宿っていた。

自分から聞いたくせして、男が応えを口にしなければいいのに、と思う。
けれども男は口を開いてしまった。

「十一年前に死んだ。」

「……そうか。」

乾いた相槌を打ってみて、案外、その心づもりだったのだと気づいた。
レイは男の視線を振り切るように、背を向けた。




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