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薄氷を履む
誓約書A

――オリバー・フロスト。

それが今の彼の名だった。
奴隷だった彼に元々ラストネームはなかったけれども、奴隷から解放されトリアスタに迎え入れられた折に、先々必ず必要になるからとジェリーに助言を受け、彼の気に入りの小説の主人公から"フロスト"の名を拝借したのだった。

「あれ、ちゃんと読んだ?」

あまりに早く彼がサインを済ませたので、ジェリーが訝しげに問うた。

「あ、すみません、あとで控えをゆっくり読みます。」

「え、なんで?今読みなよ。」

「第2大隊にお世話にならないというのは有り得ないので…。キングストン少佐の貴重な時間を割いてしまうのも申し訳ないですし。」

ジェリーはパチパチと目を瞬かせた。
オリバーはなんとはなしにその表情を懐かしく感じ、そういえば彼と初めて言葉を交わしたときもこんな顔をしていたなと、あとから記憶が追いついた。

「……あー、うん、君がいいならいいけどね。後悔しても知らないよ。」

「大丈夫です。ありがとうございます。」

「オーケー。じゃあこっちはもらってくよ。控えは大切に保管しておいて。」

「はい。」

ジェリーの節くれだった手が、誓約書を一枚ひらりと取り上げた。

「さっそくだけど、明日から第2大隊でお勤めよろしく。今はホブ出陣に向けての準備をしているんだが、教育係に――」

オリバーはジェリーの話を彼の顔を見ながら聞いていたが、その向こう側から人が近づいてきたのをふと視界の端に捉え、ちらっとそちらに視線を動かし、ハッと息を飲んだ。
そこからは、もはやジェリーが何を言っているのか、まったく聞こえなくなっていた。
突然そんな風に上の空になったオリバーの様子にジェリーが首を傾げた瞬間、ジェリーの左肩にスラリとした腕が回った。

「よ、ジェリー。」

ジェリーの首が、腕の持ち主を見上げるために捻られた。

「ああ、――レイ。」

オリバーは俄に鼓動が早まるのを自覚した。
しばらくぶりに再会した彼は、オリバーの目に一際美しく映った。
襟の付いたオフホワイトの前開きのシャツは第二ボタンまで外され、軽く腕捲りをした姿は少しだけ俗っぽい印象を与えたが、黒い細身のスラックスのセンターにきっちり折り目がついているところに彼の几帳面さが垣間見え、そのポケットに無造作に右手の仕舞われているのが、酷く様になっていた。

「君は今日も仕事か。何か借りに来たの?」

そう平然と彼に話しかけたジェリーを、オリバーは途端遠い存在のように感じた。

「昼までは寝てたよ。ちょっと調べ物あって、アレックスに使えそうな本見繕ってもらってる。」

彼がそう言って顎で指した先には、真剣な表情で本棚から本を取り出す青年がいた。

「あー、それで手持ち無沙汰になって絡みに来たと。」

「そういうこと。」

彼はニッと笑って、「そっちは何してんの」と、ジェリーの手元の紙を覗きこみながら聞いた。

「うちの隊に入れる支援局の子に誓約書のサインをもらった。ほら、この間君に許可もらったろ。」

「……ああ、こいつが。」

オリバーが彼と初めて対面したあと、思いを煮詰めているうちに、オリバーにとって彼は偶像とも言える存在にまで昇華していたので、目の前で顕される彼の表情や所作のひとつごとに、オリバーは「ああ、動いた。動くんだな。」と、到底人間に対して抱かないような感想を持った。

自ら彼をそんな遠い存在に仕立てあげてしまったせいで、アクアグレーの瞳がぴたりとオリバーを捉えた瞬間、交わってはいけない世界にほっぽり出されたような、底冷えするような心地になって、オリバーは氷漬けにされたみたいに固まった。
そうして、それでもこの機会を逃すまいと、なんとか口を開いて、名乗ろうか、挨拶しようか、助けてもらった礼を言おうか、脳内で混線して言葉が出ず、彼らはほんの一秒ほどの間見つめあった。

「オリバー・フロストだ。君がメディングで助けた奴隷だけど、覚えてる?」

だから、オリバーより先にジェリーがそう口にした瞬間、彼の表情がぽとりと抜け落ちたのを、オリバーは運が悪くも目の当たりにした。

「……おい、どうして"元奴隷"がここにいる?」

彼の声は低かった。
オリバーを殺そうとしたエルフに向けて放った声よりも、余程冷たく尖っていた。
彼の左腕がジェリーから離れ、右手と同じようにポケットに仕舞われたのを見て、オリバーは彼の居る世界に拒絶されたように感じた。

仁王立ちの彼に見下ろされているジェリーは、しかし全く動じた様子を見せなかった。

「訳あって俺が支援局に引き入れた。」

「いやそれを先に言えよ。第2大隊に入れるってのも、話が別になってくる。」

「……今更?」

「まさかお前がそんな馬鹿なことしてると思わなかった。お前だから信用して二つ返事したのわかってる?」

「それはごめん、あんまりすぐOKくれるもんだから、君は放任主義なのかと思った。」

「なわけねーよ。こいつを引き入れた理由を一から十まで今説明しろ。それによっては許可を取り下げる。」

「いや、詳しいことも聞かず許可を出したのは君だよね?それをあとから取り下げるっていうのは、あまりにも勝手が過ぎると思うよ。もう少し、旅団長としての判断に責任を持った方がいい。そんな調子だから君についていけないって言ってみんな辞めてくんだろ。」

彼の物言いには有無を言わせぬ響きがあったが、ジェリーはそれ以上の圧と量をもって、彼のその先の言葉を封じ込めた。

彼は口を閉じ、数秒、無表情でジェリーを見下ろしていた。
オリバーは一触即発の空気を感じ取って、ハラハラと落ち着かない様子で、二人の顔を交互に見やった。

彼が静かに、再び口を開いた。

「そうだな。それはお前が正しい。悪かった。」

僅かに、不貞腐れたような色があった。

彼はふっと息を吐き出し、一歩後ろに下がった。
オリバーは無意識に詰めていた息を、音を立てないように気をつけて、細く長く吐き出した。

「いい、わかった。そいつは第2大隊で、お前が責任持って面倒見ろ。考えなしに引き入れたんじゃないんだろ?」

「もちろん。そこは信用してくれ。引き入れた理由は少し長くなる、今度食事に行ったときにでも全部話すよ。」

「ん。」

ジェリーが右手を伸ばし、ポケットに仕舞われたままの彼の左腕を掴んだ。

「……ごめん、やっぱり俺が悪いな。君は十分良くやってるから、それ以上仕事を増やすなよ。」

「つまり?誓約書取り下げるってこと?」

「……それは、困るんだけど、」

「ふっ、冗談だよ。」

彼がジェリーの手を緩く振りほどいてそのまま拳でトン、とジェリーの右上腕を小突いたのとほぼ同じタイミングで、本を選別していた青年が声を上げた。

「レイさん、終わりましたよ!」

青年の手には三、四冊の本が抱えられていた。

「さんきゅー。」

彼は左手を軽くあげてそれに答えたあと、眉尻を少し下げてオリバーを見据えた。

「なんか、ごめんな。歓迎する。上手くやれよ。」

その一言に、オリバーは何かふんわりとしたもので包まれたような心地になった。
彼は外側が冷たくて中の方が温かい人なのだな、とオリバーは一つ彼を理解した。

オリバーが何かを言う前に、彼はジェリーに「じゃ」と短く挨拶をして、急くような足取りで二人の元を離れていった。

オリバーは書庫を出ていく二つの背中を見送りながら、そこで初めて、結局彼の前で一つも言葉を発していない自分に気づいた。
そんな自分の矮小さが、彼との間にある埋められない大きな距離が、オリバーにとってはとびきりのロマンスだった。

ジェリーがやおらため息をついた。

「ごめんね、オリバー。不器用なんだ。」

誰が、とは言わなかった。

オリバーがとんでもないという風に小さく首を横に振れば、ジェリーは少し思案するような素振りを見せて、ゆったりと腕を組んだ。

「メディングで、トリアスタでの職の希望を聞いたろ。そこに"軍"っていう選択肢がなかった理由、わかるかい?」

「……いえ。」

「昔は戦力確保のために一定数受け入れていたこともあったみたいだけど、多くの"元奴隷"はついてこれなかったそうだ。奴隷っていうのは言われたことしかやっちゃいけないだろう?でもこの軍では言われなくても自分で考えて動かなきゃならない局面に多々ぶち当たる。指示待ち人間は自動的に淘汰されて――要は辞めるか死ぬかだ。」

オリバーは沈黙した。
良く考えもせず誓約書にサインをした自分が、酷く愚かに思えた。

「レイはああ見えて情に厚い。自分の下につく人間には苦しんでほしくないんだよ。だから入っても活躍の見込みが薄い場合はそもそも入れさせたがらない。冷たく感じたかもしれないけど、わかってやってくれ、彼なりの優しさなんだ。」

オリバーにとっては言われるまでもなかったが、改めてジェリーの口から彼の優しさに言及があったことに、オリバーは言い知れぬ喜悦を抱いた。
それと同時に、"活躍の見込みが薄い"という言葉は、オリバーの心の柔いところにしっかりと引っかかった。

「……僕、やっていけると思いますか?」

声に出してみれば、驚くほど小さな音だった。
それはそのまま、彼の小ささだった。

「じゃなきゃ引き入れてない。君には少し、"元奴隷"らしくないところがある。」

ジェリーは真顔で、励ますでもなく揶揄うでもなく、淡々と事実を告げるように述べた。
オリバーは「何ですか」と食い付きかけて、自分のことに興味津々と前のめりになるのが途端に気恥ずかしく思われ、結局先程よりも更に小さい声で「そうですか?」とだけ返した。
ジェリーは顎に手を当てて、「ま、そのうち分かるさ」と表情を少し崩した。

いつの間にか日は沈んで、ランプの火がゆらゆらと二人の影を揺らしていた。

二人の間にしばらく落ちた沈黙に、オリバーは先程のジェリーとレイの様子をふと思い起こし、胸のあたりがざわついたのを感じた。

「クロフォード大佐とキングストン少佐は…その、大丈夫なんですか?」

「……うん?」

「なんと言うか、少し…喧嘩っぽくなっていたように見えました。」

「あぁ、よくあることだよ、レイとは。お互い遠慮しないからさ。」

先程の一悶着は、そもそも軍に入りたいというオリバーの我儘が発端だと彼自身は考えていたので、それで二人の仲にヒビが入ったともなれば気が気ではなかったが、ジェリーによればどうやらそれは杞憂だったようで、彼はひとまず胸を撫で下ろした。

「あとね、さっきのは俺が言い過ぎただけだから、変にレイへの評価を下げるなよ。」

そして予期せず続いたジェリーの言葉に、オリバーは首を傾げた。
彼の中でレイの評価が下がったことは一度もなかった――というより、そもそも"評価する"という立ち位置からレイを見たことはなかったので、"さっきの"とレイへの評価がどう繋がるのか彼は咄嗟に理解ができなかった。
ジェリーの視線は、オリバーではなく、手の中の誓約書に向いていた。

「まるでレイに旅団長としての責任が欠けてるみたいな言い方をしてしまったけど、彼は本当によくやってるよ。だいいち、大隊長の身分で旅団長としての責任がどうのこうの言える資格はないし、レイの忙しさから考えて部下からの相談を全部事細かに聞くことは分身でもしない限り不可能だ。こないだも熱を出して倒れたっていうのに、これ以上がんばらせようなんて、鬼畜もいいところだよね。」

ジェリーは、付け加えるにしては少しボリュームのある説明を、早口で捲し立てた。
オリバーはそれを聞いて、ようやく彼の言わんとするところを理解した。
ジェリーの懸念は、レイへの大袈裟に言えば"貶し文句"を、オリバーが間に受けてレイに幻滅してはいないか、ということだった。
実際のところ、オリバーが心酔しているのは彼の旅団長としての器量などでは全くもってなかったので、ジェリーの心配もまた杞憂なのだった。

さらに言えば、オリバーは、彼のしている心配は建前に違いないと思った。
純粋な心配というには、少し余計な説明が多かったし、何より酷く一方的だった。

オリバーが何と言って良いか考えあぐねている内に、さらにジェリーの補足は続く。

「レイについていけないって辞めていった人間は、彼が理不尽だからでも責任を負えてないからでもなく、前の旅団長が残していった緩い基準を彼が正した結果、それこそ淘汰されただけ。できる人間はちゃんと残ってる。まぁ、レイの言い方がキツすぎる節も確かにあるんだが、真っ当なことを言われて、言われた内容よりも言われ方に腹を立てるような奴は、結局まともじゃないよ。」

「えっと……はい……。」

ようやくオリバーが捻り出した相槌はそんなものだった。
つまり、結局彼は何と言って良いか分からなかった。

ジェリーは視線を誓約書からゆっくりオリバーへ移すと、自嘲するような笑みを零した。

「……つまり、俺が赦されたいって話だよ。勝手が過ぎるだの責任を持てだの責め立てた挙句、ろくでなしが辞めてったのをレイのせいにして、傷つけて、世話がないよね。」

オリバーからすれば、そんなジェリーの方が余程傷ついているように見えた。
慰めの言葉一つでも掛けてやれればよかったが、生憎オリバーは自己理解が割と深かったので、それをできる筋合いが自分にないことを心得ていた。
居心地が悪そうに身じろぐオリバーを、ジェリーは横目で眺めて、口元を緩ませた。

「聞いてくれてありがとう。せっかく君が手早くサインしてくれたのに、結局俺が時間使ってしまったね。」

「あ、いえ……。」

先程より幾分軽い調子で話を締めくくったジェリーは意外にもどうやらカタルシスを得られたようで、その様子にオリバーは重々しさから解放されたような気分になり、きっと何も言わずともただ聞くだけで良かったのだなと、こっそり安心した。

「あと、そういえば。これから第2大隊で働くわけだから、呼び方変えなよ。」

「あ……キングストン大隊長、で合ってますか?」

「そう、合ってる。レイのことは?」

「えと、クロフォード旅団長、ですよね。」

「正解。ほんとは俺もそう呼ばなきゃいけないんだけど。」

ジェリーはおどけたようにペロッと舌を出した。
オリバーの目下の目標は、"レイに「クロフォード旅団長」と呼びかけること"に上書きされた。

「あー、で、さっきの続き。明日から第2大隊での勤務になるから、出勤時間になったら一旦俺の執務室においで。場所がわからなかったら支援局の誰かに聞くといい。そこで教育係と引き合せるから、あとは上手いことやってくれ。俺からは以上だけど、何か質問ある?」

オリバーは束の間思考を巡らせて、聞いたところで何にもならないと理解はしつつ、つい好奇心に負けてずっと気になっていたことを口にした。

「どうして僕がここにいるとわかったんですか?」

ジェリーは虚をつかれたように、一瞬動きを止めた。

「……あ、そこ?ちょっと本を借りたくて来てみたら君がいたから、ちょうどいいと思って誓約書を取ってきたんだ。本当は明日書いてもらうつもりだったんだけど、ホブへの遠征まで時間があまりないし、早いに越したことはないかと思ってさ。」

オリバーは胸の辺りがムズムズした。
一つ気になり始めると、どうにも興味を止めることができない性分だった。
オリバーは気の弱さとのせめぎ合いの中で逡巡した末、「彼ならば」との思いでまた口を開いた。

「キングストン大隊長はなんの本を借りにいらしたんですか?」

「え?あぁ……トリアスタの歴史書を。実は仕事とはあまり関係がなくて、単にそういう……歴史とか、まぁ、本が好きなんだよね。」

「そうなんですね!僕も本が大好きで、……あ、すみません。」

オリバーは思わず声を弾ませて、そんな口を叩ける身分ではなかったと気づき、慌てて口を噤んだ。
ジェリーは、終始そんな彼のペースに飲まれる自分を可笑しく思い、緩んだ口元をさりげなく左手で覆い隠した。

「別に、謝ることないだろ。君、どういう本読むの?そういえばそれは?」

ジェリーに、先程彼から遠ざけた冊子を指さされ、オリバーは狼狽えた。
冊子自体は何の変哲もない便覧だったが、彼の用途は些か不純だった。

「あ、えっと、これは……でも、僕一番は小説が好きで!ちょっと、ここにはなかったんですけど…。」

しどろもどろに彼が話を逸らせば、ジェリーはさして気にするでもなく、その話の方向に従った。

「君の好みに合うかわからないけど、俺何冊か小説持ってるから読む?」

「え、いいんですか!」

「うん。明日持ってきてあげる。」

「あ……ありがとうございます!」

オリバーはパアッと顔を明るくして、目に見えて喜んだ。
頬を紅潮させる彼を見て、ジェリーは毒気を抜かれたように微笑む。
そうしてふと、オリバーをレイに引き合わせる役目が自分で良かったなと、どうしてかそう思った。
理由は別にわからないままで良い気がした。

ジェリーはテーブルに左手をついて立ち上がった。

「じゃあ、俺ももう行くよ。邪魔して悪かったね。」

「いえ、あの、色々とありがとうございました。」

「とんでもない。明日からよろしく。」

「はい!よろしくお願いします。」

ジェリーはひらひらと手を振って、オリバーの元から立ち去った。
オリバーは今度は書庫を出ていくジェリーの背中を見送って、一人になって、それからフツフツと、疑問が湧き上がった。

そういえば、彼は本を借りずに帰ってしまったがよかったのだろうか、と。

しばらくしてもジェリーが戻ってくる様子はなかったので、きっと気が変わったのだろうなと片付けて、オリバーはテーブルの端に避けていた便覧をまた正面に引き寄せたのだった。


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