名家長男・最上武早と愚弟
「あや、いかが致した?」
「え?」
「深あーいため息が聞こえたものですから。自ら幸福を逃すのは得策ではありませんよ」
「ええ、そう……そうね。お心遣い痛み入るわ」
相談室の主人が、相談者を差し置いてため息などあるまじきこと。比叡院は一度顔を引き締めて、いつもの笑顔を口元に浮かべた。
「失礼したわね、最上さん。今日はどうなさったのかしら?」
「ああ、ちょっとお家事情が絡むのだけれどねえ……」
今日の相談者は最上武早。伝統ある古家の長男であり、茶道や華道はもちろんのこと、居合や合気道、剣道などの武術も師範代まで極めている。
穏やかな物腰は敵を作りにくく、また最上自身も声を荒げたことはほぼない。
そんな彼は意外にも好奇心が強く、気になったことはなんでも実行に移すタイプの人間である。その過程で比叡院とも知り合ったのだが、スポーツにしろ芸術にしろ最上はなんでもソツなくこなした。
教師や世間をして『天才』と言わしめる理由ははっきりと彼の経歴に現れている――以上が比叡院の知る最上武早という人間だ。
そんな彼が、次はどんなことに手を出そうかと相談に来るのはしょっちゅうである。だから今日もそうなのだと比叡院は思っていたのだが、どうも少し違うようだった。
「弟がね、いるのだよ」
「……初耳だわ」
「家のものがあまり公表したがらないのです。少しその……素行が悪いものでして」
「あらまあ」
最上曰く、弟の名は武嗣。小学校まではきちんとした少年だったのだが、中学に入ってしばらくしてから突然家族以外の人間を突き放すようになってしまったという。
「私や母様たちには前の通り接してくれるのですが、 得に学園の者たちには人が変わったように噛み付いていくもので」
「……それは……その武嗣くんは今、何年生なのかしら?」
「中学三年生です。受験勉強もやはり励んでいるようなのですが、ほとんど登校していません」
「……そう……弟くんはここの中等部ね?」
「ええ。残念ながら高校は外部を受けると言っていましたが……」
「中等部三年、もがみ……『もがみたけつぐ』……」
比叡院はふと語尾を濁して俯いた。突然言葉が途切れたことを不思議に思った最上が首をかしげて彼の名前を呼ぶと、比叡院は優しく笑って顔を上げた。
「あなたにいいものをあげるわ」
「……いいもの、とは……」
「ちょっとお待ちなさいね」
きょとんとする最上をよそに、おもむろに立ち上がった比叡院は奥の部屋へと姿を消し、五分ほどして戻ってきた。
その手には紙が一枚。ノートのページをちぎったらしい、いびつな形をした切れ端だった。
最上の前に戻ってきた比叡院はその紙を適当にいくつかに折りたたみ、格子の隙間からそっと差し出した。
最上は戸惑いながらもそれを受け取る。比叡院は指の先すら触れるのを嫌がるかのように、最上が紙に触った瞬間ぱっと手を離した。
「これは?」
「開いちゃだめよ。今日はもう帰りなさい。誰もいないところで読んで、読み終わったら燃やしなさい。それで週末にでも弟さんのところに行って話をしなさいな」
紙と比叡院を見比べながら疑問符ばかりが湧き出してくる最上は、促されるまま相談室を出た。
「……昼休みはまだ時間があるな」
読み終わったら燃やせというのは、つまり知れてはならないことなのだ。なら早く読んで早く処分しなければ。
最上は人気のない場所を探すため少し思案し、足早に部室棟へ向かった。昼休みのこの時間は、運動部員たちは時間を有効に使うため本校舎のグラウンドで練習している。まず部室棟に人はいないだろうと考えたのだ。
部室棟に近づくにつれて、本校舎の喧騒が遠ざかっていく。なに悪いことをしているような気分になった。
そして、物音ひとつしない部室棟最上階の廊下。
最上は二年ほど前に学園の中学校で起こったという、悲惨な強姦事件の全貌を知った。
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