浮上のち急降下 ある程度目処をつけて掘り起こした土の中からは、予想外にいいものが出てきた。求めていた情報はあっさり手に入り、検討の余地ある話もおまけに。 籠いっぱいに抱えた有益な情報たちが千代たちの、ひいては香坂全体の役に立つのなら、この一週間の価値があったというものだ。 宴会の後、糸里は土日も研究所で過ごした。ありきたりな別れの言葉を残してつつがなく帰還したが、真っ先にすべきことは代理への報告だ。 帰還の翌日早朝、つまり今日この時間。潜入部隊の応接室に来ることになっていた。 「……ほう」 報告書を片手に糸里の口からも成果を聞いた代理は、やはりソファには座らず口元に手を当て、考え込む素振りを見せた。 「……殻無か。確かにあの辺りの山には魔物が相当多いと聞く。他に住処がないからだろうな……あそことあそこはなくなったし……研究所があるとすると、殻無山くらいしか……」 ぶつぶつと独り言を繰り返す代理に声をかけて邪魔するのはご法度だ。代理の頭の中には糸里の数倍も情報が蓄えられていて、膨大な量の情報を整理するため声に出すことはよくある。 下手に口出しすると、本人のみならず他の上司からもどやされるという噂だ。噂どまりなのは、潜入部隊の兵がその暗黙の了解を徹底的に遵守しているからである。 自分の中で話がまとまったらしい代理はひとつ頷くと、報告書をぱちんと弾いた。 「よし、情報部隊に報告する。お前はこの報告書をもとに、上に提出する分の書類を作っておけ」 「わかりました」 代理から労いの言葉はない。その中性的な容姿に陶酔している他部隊の兵からは好き放題に理想を押し付けられているようだが、糸里としてはやはり朴念仁がしっくりくる。本人はどう言われようが無頓着なのだろう。 代理は糸里が渡した報告書を置いて情報部隊へ向かった。あの一分足らずで、二枚の報告書をそのまま頭に入れた記憶力は改めて尊敬に値する。参謀部隊出身なのでは……という話が出回るのも納得がいく。 糸里はこれから部屋に戻り、部隊長の会議で用いられるであろう書類の草稿を仕上げる。報告内容を堅苦しい言葉で固め、薄っぺらい紙数枚を埋める作業だ。これから休む暇なく書き上げるのは疲れるが、これで少しは話が進むはずだ。 ◆ 寮の部屋に戻った糸里は、同居人のおかえりの言葉におざなりに返事をしてソファに飛び込んだ。嗅ぎ慣れた匂いと感触が落ち着く。 「……大丈夫か?」 「うん、まあ、大丈夫」 ヒラ潜入部隊の糸里は四人一組の大部屋で生活している。先に部屋にいたのは一人だけだった。その同居人は、どこにでもいそうな薄い顔をした中肉中背の男。持ち前の、よくもなく悪くもない絶妙に普通な顔を活かして潜入に励んでいる。同じ潜入班として方向性は違うが、親しい同期の兵だった。 ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながらくつろいでいた彼は今日、非番だったという。カップを置くと、ソファ倒れ込んだ糸里に、代理が言わなかった労いの言葉をかける。 「お疲れ」 「ありがと。でも今から報告書」 「中途半端にやったら、代理に小学生の作文みてえに赤ペン入れられんぞ」 「知ってる」 もちろん経験済みだ。 糸里は渋々起き上がり、足を引きずるようにして冷たいフローリングを歩くと、自室からパソコンを持ち出して戻ってきた。ソファに今度はきちんと座り、膝の上に乗せて起動させる。 気の利く同居人は、糸里のぶんのコーヒーを淹れに台所に向かったようだ。彼自身のこだわりで豆から淹れるので、すぐに芳醇な香りが糸里の元へ流れ着いた。 そうやってコーヒーの香りを感じていると、落ち着いているはずなのになぜか高揚感がやってくる。宮水第三研究所での任務を仰せつかったときと似た感覚だ。 ――やり遂げた。僕の行動が、きっと何かを動かした……? 全身に鳥肌が立ち、浮遊感のように臓器だけが舞い上がる感覚。驕っているのだろうか。自惚れているのだろうか。たった一度任務を任され、成功させたくらいで。 けれど大きな成果であることは確か。そう思ったとき、ふとある顔が脳裏に浮かんだ。 眠たげな目と、小さく薄い口が特徴的な、幹部というには若すぎる男。気の遠くなる量の血を浴びては洗い流してきたであろう灰色の髪が、視界の端で揺れた気がした。 とっさに振り向くが、そこに誰かいようはずもなく。 「どした?」 「……なんでもない」 香坂軍特攻部隊『ミッドナイト・ノーツ』最年少幹部のひとり、朝倉。 聞く限り糸里との年齢差はほんの数年。十八年も生きていない子供が最も危険の伴う最前線を突き進んでいる。その功績は目ざましく、何かを成し得た翌日には軍全体に知れ渡っている。名の知れた兵は他にもいるが、朝倉の場合はその年齢だからこそその強さが際立つ。 西来も経歴や貢献はほとんど同じだが、彼は軍全体で見ても恵まれた肉体を持つ。一見細身の朝倉のほうが力では弱い分、その戦闘技術が目立っているのだろう。 それに彼の属する部隊は失敗すれば即刻死、あるいは捕まって拷問を受け、地獄を味わうかの過酷な戦場で。 糸里がたった一度上げた功績では、彼に遠く及ばない。 ずきんと頭が痛んだ。 「……あれはさすがに無理かなあ」 年々起動が遅くなるパソコンには、待機を強要する砂時計のマークが依然ぽつりとそこにいる。乾いた自虐的なつぶやきを糸里が漏らすと、それを嫌うように砂時計はふっと消えた。 劣等感は仕方ない。 確か香坂に入って間もない、まだシードの頃だった。潜入部隊志望でも最低限の戦闘訓練は必須で、組手のとき、千代や糸里より体格や体力で遥かに勝る男たちが、二人を馬鹿にしては笑っていたのだ。 コンプレックスを無遠慮に刺激されて唇を噛み締める糸里に、当時からだいぶ大人びていた千代は、遠ざかる彼らの背中に向かって静かにそう言っていた。 いつもとは違う静かな声だった。 振り返った糸里が目にしたのは、壮絶なまでに何もない表情。無を体現したかのような顔をした千代から、五秒と経たず目を逸らしてしまった。 「コーヒー入ったぞ」 「……ありがとう」 糸里の様子がおかしいのを気づかないはずなかったが、彼は敢えて気にした風もなく砂糖たっぷりのコーヒーを糸里の前に置いた。 彼のお気に入りとかで、昔から迷ったら必ずこれを淹れる。飲めば不思議と口が軽くなるようだった。 「深夜はすごいよね」 「……は? どうしたんだよ急に」 一度声にしてしまうと、堰を切ったように次の言葉が出てくる。本音は糸里の隙を突くように飛び出してしまった。 愚痴なんて聞かせるものじゃない。慌てて取り繕う。 「なんでもない。ごめん、気にしないで」 「……おう」 深追いをするべきではないと思ったのか、彼は追求せず自室に引っ込んでいった。 もうパソコンは起動している。けれどどうしても指が動かないのはなぜだろう。書こうと思っていることは山ほどあるのに。新規の情報を誇らしげに持ち帰り、深夜との差を自覚した途端にこれだ。みっともなくて腹が立つ。 なんでもいい。 千代と話がしたかった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |