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今から


 たくし上げた服の裾から無骨な手が入り込み、硬い無機物の感触が肌に触れる。右鎖骨下から始まり、左へ、さらに下へ、息を吸って吐くたびに位置を変えていく。肌に触れる膜面は念入りに温めてられていたようで、イメージしていたような冷たさはなかった。

 そんな聴診器の動きを、千代は緊張の面持ちで追いかける。



「……はい、よろしい」



 芹沢はあっさりした結果を口にし、聴診器を外して首にかけた。椅子を回して机に向かうと、カルテにペンを走らせる。その軽やかな動きは、千代の身体が業務復帰するのに十分なほど回復した旨を記していった。

 丸椅子に収まった千代は服を戻し、芹沢の極め付けの言葉を待っている。



「退院だ。予定通りだな」
「どうもお世話になりましたわ」



 思い通りの言葉が得られたことで、千代はほうっと安堵の息を吐き、患者衣のまま大きく伸びをした。ようやくこの清潔すぎる区画から解放されると思うと、気分が跳ねて爽快感で充ち満ちていく。綺麗なのはいいことで、汚いよりはるかにましなのだが、まるで自分が管理された実験動物であるかのような息苦しさも否めなかったから。

 これほど長く入院したのは人生で初めてだ。とは言っても、殻無での任務から経過したのは三日ばかり。医療部隊に担ぎ込まれた中では最も早い退院だった。同じ病室の天河や神木はまだ検査にしばらくかかるだろうし、朝倉は――会えていないからよくわからないが、容体は芳しくないらしい。

 この間園崎に問い詰めたところ、最初は渋っていたがついに折れて教えてくれた。千代は任務に関わっているので特例だと釘を刺されはしたが……目覚めていない、とだけ。

 胸に風穴を開けられて、天河たちと同じ毒も食らって。

 けれど、誰も彼が重傷を負う現場を見ていない。状況的にはあの狼がやったということになるが、朝倉は大木に杭で打たれていたという話だ。知能が高いだけの四足歩行の動物にそれができるのか。

 何か。
 別の何かが動いている可能性を、誰しも感じているはずなのだ。


 思いつめた顔の千代をよそに、書き物を終えた芹沢は出来上がったカルテを目の前に掲げて眺めていた。机上のライトに透かして満足げに頷くと、再び机に置いて最後にサインをする。

 これにて、千代は晴れて自由の身だ。出来上がったカルテをファイルに挟みながら、芹沢は再度椅子を回して千代に向き合う。



「君は骨折だけだったから、治癒さえ終われば回復は早いものだな。例の毒に侵されていないのも幸運だ。聞く限りでは、神木と似たような条件だったように思うが」
「おっしゃる通りですわ」



 芹沢がそこに着目するのも頷ける。

 なぜなら神木と千代は同じ口の魔物に噛まれているにも関わらず、神木は毒をうけ、千代は無事である。未知の毒に対する抗体がたまたまあったとは考えにくい。
 毒の性質は解析できても、どの個体から撃ち込まれたのものなのか……つまり感染源が絞れていないのだ。

 毒が検出されたのは天河、朝倉、神木の三人。

 最も怪しいのは口の魔物だが、そうすると天河に対して説明がつかない。彼は大勢の魔物を相手にして少しずつ傷を負っていて、口の魔物とは一切接触していなかった。



「本部に戻ってから神木と少し話しましたが、アタシとあの子が相手にした魔物は確かに同じ形です。違いがあるとすれば、外に出ていた時間かしら……けど、それは西来や空見たちにも言えることですものね」
「そう。あれはウイルスや細菌の類ではなかったから、個別に感染するはずなんだ。限られた魔物が産生できる毒なのか、後から牙や爪に塗ったのか」
「どちらにしても、肝心の魔物が残らずああなっちゃいましたものねえ……」



 千代が稲妻を纏う男を想像して控えめに笑うと、芹沢もまったく同感だと椅子に深く座り直して腕を組む。

 現場に残っていた魔物のほとんどは、高崎によってこんがりと――いや、炭化するまで灼かれている。できれば原形をとどめるくらいにしておけと指示しなかった参謀部隊も参謀部隊だが、仮にそういう命令があったとしても、あの状態の高崎が遵守したかどうかは怪しい。



「まあ、解毒できたんならいいじゃありませんの」
「結果論はあまり好ましくないんだがね」



 芹沢は白衣の左袖をつまんで捲り腕時計を確認すると、やれやれと腰を持ち上げる。そして近場のスタッフを呼びつけて千代のカルテが挟まれたファイルを手渡すと、両手の指を景気良く鳴らしてから眼鏡を押し上げた。



「病室の荷物をまとめて、寮に戻って構わない。仕事に向かうなら止めはしないが、ほどほどにすることだ」
「そうしたいのは山々なんですけど、仕事は山積みですの。アタシは恥ずかしながら気づかなかったんですけれど、本部に侵入者があったんですってね」
「……なんだ、もう聞いているのか」



 千代も病室に戻るべく立ち上がり、入院生活中ずっとほどいたままの髪を艶やかに払っていたずらっぽく笑う。「さすがに、あれだけのおおごとならね」

 芹沢の非人間的な投薬行為によって吐かれた情報によると、侵入者たちは宮水の回し者だという。もちろん、千代は目の前の医者がそんな凶悪な人物だということは露とも知らない。正当な調査で判明したと思っている。

 しかしながら、当の芹沢は涼しげな顔で卓上カレンダーを手に取った。



「近々、宮水軍へ監査を送る方向で固まっている。天河の復帰に合わせるようだから……17日か。週明けの月曜だな。あいつは浅い傷ばかりだったし、毒の影響が抜けて検査が終わればいつでも戻れるだろう」
「だからトレーニング再開してましたのね。神木は?」
「天河よりは深手だが、あの生命力は異常だな。治癒の効きが良すぎる。天河の数日遅れか、下手をすれば同じ日にでも退院だ」



 宮水への立ち入り調査に駆り出されるかはわからないが、と後付けして、芹沢はカレンダーを元の位置に置いた。



「そのための検査がこれから始まるんだ。俺直々のな」



 らしくない、逸る口調だった。それは行動にも現れていて、芹沢はそわそわと白衣の襟元を直し、ポケットの中身を確認しながら診察室の出入り口へ歩き出す。まるで遠足の用意をする小学生だと思いながら千代も後に続いた。



「全身くまなく精査させてもらうとするよ。楽しみで仕方なくてね、今朝は朝食をいつもの倍食べた」



 誰も聞いていないことを嬉々として語りながら、引き戸を押さえて千代を先に通そうという紳士的な一面も見せる。いや、単に患者に対する配慮なのかもしれないが。

 医者としての厳格な顔と、劇薬を平然と投与する異常者としての顔。そして本来医師を目指すきっかけとなった『人体への興味』を掻き立てられた無邪気な顔。
 前二つは厳重にコントロールされているが、三つ目は本人も隠し通す気はあまりなかった。









 千代が退院の許可を得ている間も、情報部隊はいつもどおり機能していた。通常業務に加えて、宮水軍本部の監査のために準備を進めている。主に宮水の動向調査だ。

 『香坂本部へ侵入した人物が宮水の名前を出したため、宮水軍本部を調査して事実関係を確認する』――万が一国軍をはじめとする一般企業や民間人に糾弾されたときはこの文言を発表する。宮水軍はあくまでいち私設軍として機能しているため、列強権限によって強制捜査が可能なのだ。前例もある。

 企業と、その企業が所有する私設軍の関係が深いと列強は手を出しにくい。しかし戦いに身を置く私設軍には必然的に荒くれ者が集まりやすく、彼らがトラブルを起こしたときの責任問題を恐れて、独立した子会社として維持させているケースがほとんどだ。

 今回の場合でも宮水本社は手を出してこないはずだ。軍のことは軍に任せていますの一点張りだろう。私設軍というより警備会社のような側面が強い組織なので、それ単体で成立しているという印象も強い。

 だが、宮水というグループは綺麗すぎる。そして大きすぎた。
 貴重な宝石ほど、裸眼では視認できないほどわずかな傷があるだけでその価値はぐっと落ちてしまう。そういうことだ。


――宮水軍は今日も元気に経営中。社外研修の警備に、主催イベントの運営補助、と。


 公式のホームページに記されていない情報でも、少し潜れば簡単に見つけ出せる。その日の業務はもちろん、おそらく社外秘であろう名簿まで。
 もちろんハッキングは法律に抵触する行為で、情報部隊も表向きはセキュリティ管理を担っている部署とされている。だが列強に関しては露呈しなければ罪に問われないというか、要するに完全犯罪である。治安維持に際して必要な部分もあるという理由で、秘密裏に遂行するぶんには国もある程度目を瞑っていた。



「んー……」



 ずっと同じ姿勢でいたせいで腰や肩が鈍く痛む。いい椅子を使っていても、これほど長い時間机にかじりついていればあまり意味はなかった。
 市井は前のめりの態勢を改め、柔らかい背もたれに体を押し付けた。ほどよい抵抗が受け止めてくれる。
 なにより目の疲労が辛かった。とりあえずゴーグルを外し、指でぐりぐりと揉んでほぐす。

 特に外傷のなかった市井は、当初の任務では救出される側だったにも関わらず、殻無から香坂に戻ってすぐ仕事に復帰した。十日もパソコンから離れていたせいか、戻ってから疲れやすくなっている気がする。


 千代が退院することは知っていた。
 仕事に戻るのは今日か、明日か。千代のことだから、多少無理をしてでもすぐにやって来そうだ。



「よし」



 ならば呑気にしている場合ではない。市井は気合いを入れ直すために頬を軽く叩き、ゴーグルを再び装着する。クリアな視界が、見慣れたプラスチック越しの景色が現れた。

 その端に、ひらひらと揺れる部下の手が。



「室長、携帯鳴ってません?」
「え?」



 言われて初めて足元に置いていた鞄に手を触れると、確かにかすかな振動が伝わってくる。急ぎの用事なら内線を使うはずだ。日中に私用の携帯にかけてくるなんて、あまり思い当たる人物はいないが。


 首を傾げながら、携帯を引っ張り出す。裏返して着信画面を見た市井は、その相手に思わず声を裏返した。



「あっ、ええ……マジか、ちょっと」
「どうしたんですか? 誰から…」
「ごめん、ちょっと外す!」



 部下が覗き込もうとするも、市井は画面を自身の胸元に伏せて隠した。別に見られて困るものではなかったが、無意識がそうさせたのである。
 つまり、彼の過去に深く関わる人物からのもので。



「えっ、はい。わかりました」



 ばたばたと慌ただしく本部を飛び出していった市井の背中に、部下は戸惑いながらも声をかける。豪快に立ち上がった反動で回転する椅子の音が残っていた。

 その勢いのまま本部を出たもので、入り口を警備する黄昏二人も突然開いた扉に驚いた。構わず携帯を片手にずんずんと廊下を歩いて行く市井。近場に人気の少ないところを求めて、滅多に使われない情報部隊用の倉庫に飛び込んだ。
 化学班とは違い、情報班はあまり備品の消耗は激しくない。いざというときに接続が悪いと困るので、コード類の点検も毎日行われている。この倉庫に来るタイミングはごく限られているわけだ。



「……ふう……」



 薄暗く狭いスチールラックだらけの部屋で、市井は振動を続ける携帯を片手に息を整え、冷静を装う。

 情報部隊は上下関係がふんわりした空間だ。自身が責任者だということもあり、長らく目上に対する本物の・・・礼儀を忘れている。他人はともかくこの人にだけは生涯きちんとした対応をしようと決めているので、そのためには心の作り込みが必要だった。

 以前、自分からかけるときも相当な時間を要している。市井は最初に放つ言葉を考えながら、止まらないコールに背中を押されて受信ボタンに指を滑らせた。



「市井です」
『はい、天童です。この間ぶりだねえ。仕事中だった?』
「大丈夫ですよ。でも、ちょっと驚きました」
『ごめんごめん。事情が変わったもんで』



 誰が聞いても穏やかな老人を想像する声。電波に乗って届けられる過程で少し捻じ曲げられてはいるが、それは間違いなく市井の恩師、天童教授の声だった。

 身構えていても、いざ話し出すと自然な言葉がするすると出てくるのが不思議だ。昨日の今日なのに懐かしさを感じている。


 市井は灰色の壁に背をつき、会話のわずかな合間に追想する。
 天童は金曜日の講義の後の一時間、必ず生徒と話すための時間を取っていた。話す内容はなんでもいい。専攻の話、講義での疑問、他愛ない世間話。市井は決まって最後に尋ねてゆき、雑然とした研究室に椅子を並べて語り合った。
 退学を決めたのも香坂へ入ったのも、どちらも自分の意思なので後悔はない。だが天童のもとで研究を続けていたら、また違う自分になっていただろう。


 けれど今は市井も責任ある立場につき、互いに多忙な身である。天童は咳払いをし、声のトーンを落として本題を切り出した。



『17日に会う約束しただろう』
「ええ。ご都合が悪いようなら、変えても……」



 日にちが伸びるのは正直痛いが、という本心を隠して市井はそう言いかけたが、そこに天童が慌てて被せる。



『ああ違う、逆』
「と、言うと?」



 高揚が伝わると格好が悪いので気をつけながら声を出す。
 着信の名前を見たときから、もしかして、という期待はあった。そもそも失望か期待かの二択だったから。

 突き落とされて持ち上げられたほうが盛り上がるのは、古今東西あらゆるエンターテイメント、起承転結の理論からみても必然だ。



『ドタキャンだよ、ドタキャン。しかも大きい会社の社長さんがよ? まあ別に悪い噂を流すつもりもないけど、いい大人がねえ』
「へえ。それは大変でしたね」
『本当に。それで、君さえよければその時間で会えないかと思って』



 よし、よし。空いた手で拳をぐっと握る。

 会えるなら数時間でも早いほうがいい。幸い部下には恵まれているから、少し開けたところでさほど支障はない。少なくとも天童よりは調整が効く。携帯を持つ右手の袖をいじりながら、市井は意味もなく倉庫を歩き回っていた。



「仕事に関わることなので、ありがたいです」
『ああ、そう? よかった。正直無理かなあと思いながらね、急ぎだって言ってたからダメ元で連絡してみたんだけど』
「調整できますよ。いつですか?」









「あ、お帰りなさい」
「悪い、今日の仕事任せていい!?」
「えっ」



 騒がしく飛び出して行ったかと思うと、今度はそれ以上の気迫をまとって戻ってきた市井。任せていいかと聞きながらもう白衣を脱いでおり、問答無用さがひしひしと伝わる。
 机に出してあった私物を次々と鞄に放り込み、残っていたコーヒーを飲み干す市井を見ながら、ようやく部下の一人が我に返った。



「いやいや、仕事は別にどうとでもなりますけど、一体何が……」
「今は無理! 今日は戻らないからあと頼む!」
「ちょっとお、室長!?」



 聞く耳持たないとはまさにこのこと。市井は自分の体から引き剥がすように脱いだ白衣を椅子の背もたれに粗雑に掛け、物がとりあえず押し詰められた鞄を掴んで再び扉へ駆け戻る。



「じゃあよろしく! お疲れ!」



 嵐のように去っていく上司に、部下たちは為す術なくぽかんと見送る以外なかった。


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あきゅろす。
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