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「脅されて仕方なく……」


 意を決して踏み出した一歩は果たして正しかったのか。糸里にその答えを導き出すことはできないし、残念ながら最も答えに近い答えを教えてくれる人もいない。いたとしても、どうせ既に丸腰の体を晒しているのだから、残っているのはその結果だけだ。

 けどひとまず向こうの要求は呑んだから、刺激しないように慎重に出方を伺って……なんて甘いことを考えていた。先ほどの会話を少し思い返せば、敵が身の程知らずにも戦場に現れた弱者糸里に良い感情を抱いていないことは明白だったのに。



「…………」
「やあ」



 顔を上げれば、赤髪の男が手の触れる距離に立っていた。

 糸里の進路を塞ぐように壁に片手を付き、もう片手は腰にやって、正面からじっと値踏みするように身を乗り出して糸里を見下ろしている。笑顔だ。
 その体は糸里の顔に暗い陰を落とし、光を遮り、自身の生命を脅かす存在を間近で見つめていた。


 その向こう側では、背を向けて立っていたはずのクインテット兵が、ちょうど武器を取り落として頽れる最中だった。武器はともかく、体が床にぶつかる音は想像よりもずっと小さく、血も脳も臓物も摘み取られて空っぽになった上皮組織の塊をただ横倒しにしたかのよう。人差し指でつついたら倒れた。そんな風に。

 彼はいつ攻撃されてもいいように構えていたはずだったのに、いとも容易く敗北を喫した。この事実が示すのは、不意打ちやさかしい小技抜きに、純粋な地力で赤髪が格段に上回っていたということ。

 声を出すことさえ許されなかった糸里の拙い動体視力では、事態を理解する以前に、一部始終を視認することさえ及ばなかった。誰がどう動いてこうなったのか、弱者にはそれを知る権利すら与えられない。ただ自分を除け者にして進む事象に相応に巻き込まれるだけだ。


 脅迫に屈し、隠れるのをやめておよそ数秒。

 武器も経験もセンスもない糸里は、謎の侵入者と二人っきりで相対していた。赤髪男の形のいい唇から、聞き覚えのない声がつらつらと紡がれる。



「君は戦う人じゃないね?」
「…………」
「だよね、見た限り貧弱もいいところだし」



 糸里は否定も肯定もしていないが、わずかな殺気でこの気圧され具合。手練れでなくとも察しは簡単につく。一見無表情な糸里だが、表情筋すら凍りついているのが実際だ。


 興味と反抗心。糸里の心中に生まれたその二つが悪かった。

 寮の自室で無為に時を過ごしていた彼は、警報を聞き、本部に侵入者が向かっていることを知った。同じ非戦闘部隊でも、千代の所属する情報部隊や開発部隊は重要な情報、図面を守りつつ地下へ向かう。

 しかしストレンジャーは本部では大してできることがなく、一部を除いて地下に直行することが命じられており、寮にいる場合は自室に引きこもり指示を待つのが正解だ。

 けれど、寮を出てしまった。自分にもできる何かを探して。その結果が現状だ。

 ここは本部二階の小さなT字路で、糸里の右と後ろに廊下は続いている。しかしこの近さに加えて相手はあのスピード。目で追うことさえできなかったのに、並みの足で逃げきれるわけがない。正面には赤髪。明らかに詰みだ。



「ちょっと聞きたいんだけど、いい?」



 頷くこともままならないのをわかっていて聞くあたり、性格の悪さが滲み出ている。

 無言の返答は状況によって肯否の判断が容易だが、実質は聞き手の都合に委ねられている。誰がどう考えてもイエスの意味を持つのに、ただ一人がノーであると主張するなど。一対一の場合は特に、聞き手に与えられる権利が強い。相手が何らかの理由で『答えられなかった』のだとしても、赤髪は自分の都合のいいように解釈する。

 今回はそう、糸里は『快諾した』と。



「セラ、どこかな。ここにいるはずなんだけど。知らない?」



 聞き慣れない名前だった。ほんの少し眉をしかめる。

 こんな得体の知れない、されど異常な強さを持つ男が、本部を襲撃してまで探している人物。それはきっと香坂の誰もが知っているような人であるはずなのだ。けれど思い当たる節はない。『セラ』とは苗字なのか。どんな字を当てるのか。


 記憶を辿ることに夢中になり、恐怖がかすかに和らいだことで、相手もようやく糸里がその名前に馴染みないことを悟ったようだった。



「ン、セラじゃわからない? 朝倉世良。銀髪でツンツンした……あ、髪型じゃなくて性格がね」
「……!」
「お、やっぱり知ってたね。いやあ、そんな気がしてたんだよ」



 名前を出されてしまった時点で糸里の敗北は決定した。
 その名を理解した瞬間、脳は自動的に記憶の中の顔を一致させる。海馬をほじくり返すまでもない、記憶の海の浅いところに漂っている、簡単に思い出せる気だるげな表情。

 いくら惚けようとももう遅い。糸里の空気が変わったのを見て、男は不意の凶悪な笑みを見せた。綺麗に揃った白い歯はいかにも親しげな好青年の特徴だが、表情は悪魔的なまでに糸里を見下している。
 こなれた仕草で持ち上げた口角――しかし目は悲しいまでに無感情で、口元を隠せば簡単に子供を泣かせてしまえるだろう。


 はるかに弱い相手が目の前にいて、かつ欲しい情報を握っている。ならば力で以って口を割らせるのが一番だと赤髪自身も思った。

 今までもいくらか殺気が滲んではいたが、表面的には概ね穏やかだった雰囲気を反転させる。即ち、なけなしの愛想である笑みを殺し、真顔で刃を向け、糸里を脅迫することに決めたのだ。



「言えないんだったら、言えるようにしてあげるよ」



 そんな呪詛を吐きながら。
 それだけ聞くと、無理やりにでも語らせる……と捉えるのが相応しいが、本当のところ、赤髪にはそんな気は毛頭なかった。力でねじ伏せることにしたのは確かだが、彼の意図は些か変化球に過ぎた。何ならある種の気遣いでもある。

 言葉通りの意味なのだ。『してあげる』の正しい用法、他人のために起こす行動。


 戦えば糸里は確実に負ける。けれど手放しに朝倉の居場所を教えたら、それは裏切りに等しい行為となるのだ。のちに露見した場合、心無いものたちに糾弾されるのは糸里のほうだ。
 だから、『脅された』という既成事実を作ってやる。脅されて仕方なく、と言えば、皆糸里の弱さに免じて見逃してくれるだろう。



「言わないなら、殺す」



 けれど糸里はそんな深いところまで考察する精神状態にない。また、冷静であっでそこまで考えが及ぶかどうか。赤髪が『してあげる』を言葉通りの意味で使ったが、糸里もまた『殺す』という語を額面通りに受け取ったのだ。
 故に、こうして恐怖に苛まれるのは自然なこと。



「……ッ」
「ね、教えて?」



 ひんやりとした鋼が、糸里の下顎にひたりと張り付く。

 糸里が絶対に口を割らない手強い男だったら、赤髪はこんな手段を取ろうとは思わなかった。不意打ちでもなんでも使って、まず情け容赦なしに襲いかかっている。



「……あ……」



 真っ先に感じたのは悪寒。忘れかけていた寒さが戻ってきて、指先から冷気が這い上がってくる。それから震え。時折、閉じた口の中でかちかちと歯がぶつかり合う。今、背後から肩を叩かれたら、舌を噛みちぎってしまいそうだった。どこからともなく現れた浮遊感のような不快感が内臓を浮かせ、首筋をなぞる己の髪で吐き気がする。

 糸里の本能は目まぐるしく行動を模索し始めた。
 逆境に立ち向かうか。良い方法を限界まで考えるか。クインテットが目を覚ますまで恐怖に体を晒し続けるか。安いプライドを二つ折りにして引きちぎるか。身の程をわきまえて従うか。――可愛い我が身のためになるのはどれか。



「病棟の……最上階に……」



 結局、保身のために仲間を売る――そんな人間なのだと、後から来たのは自己嫌悪の嵐だった。時間を巻き戻せるのなら、その言葉を撤回する前に自分自身を絞め殺したかった。

 赤髪は無の境地のような顔を少年のように軽やかに綻ばせ、突きつけていたナイフをくるりと回して鞘に収めた。それで巻き起こった小さな風に乗って、腐卵じみた悪臭が鼻をつく。やはり毒が塗られていたようだ。



「ありがとう。気をつけて戻りなよ」



 およそ敵にかける言葉ではないし、気をつけるべき相手はむしろその発言をした赤髪自身。そもそも既にこうして遭遇し相手の思う壺になったのだから、侵入者に対してはもう何を気をつける必要もないはずだ。

 空っぽの頭で、糸里は背を向けた赤髪の後頭部をぼんやり眺めていた。

 結果的に場所を伝えることにはなったが、同時に相手の目的と、これから向かうだろう場所も判明した。今すぐに誰か……上等兵なり上司なりに報告すれば逆転のチャンスはある。

 けれど糸里はそれをしなかった。悠長にものを考える余裕に欠けていたのもあるが――赤髪が最後に見せた笑顔に既視感と違和感を感じていたのだ。

 性格の割に優しげな柔らかい笑顔。その控えめな笑いかたが、糸里の知る誰かと重なったのだ。


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