迫り来る、
時刻はまもなく午後七時。
冬の真っ只中では、こんな早い時間でも街灯なしでは足元もおぼつかない。都会らしく星ひとつない濃紺の空には散り散りの雲が、そこだけ消しゴムをかけたようにぼんやり漂っている。月を隠す役目を負ったものだけが、鈍く、白く光っていた。
企業ビルが立ち並ぶここ一帯が眠るのはまだまだ先だ。どの建物のどの階層にも明かりが灯り、人の出入りも頻繁にある。
――その中に一際目立つ、とある高層ビルがあった。
隣にそびえ立つ大手ビジネスホテルと張り合って、高く高く空へ手を伸ばすコンクリートの塊。
その最上階で。
「…………」
イタリアのデザイナーによる世界に二着とない云々、要するに無駄に値の張るオーダーメイドスーツに袖を通した男は、今日も週に一度の愉しみに浸っていた。
些か寒すぎる夜。窓は閉めたままで夜景とワインだけを嗜んでいるわけだが――しかし、どこか苛立っているように見える。
こちらもまた特注の数百万する靴を小刻みに揺らし、ワインは香りなんてそっちのけでひたすらぐいぐいやっている。開けたばかりのボトルの中身は半分ほど減っていて、それを持つ秘書の不安を表したのか、赤紫の水面がふらりと揺れた。
この場の最高権力者であるそのひとは、グラスに残っていた分のワインを一気に煽ってからむこう、口のきき方を忘れたかのように沈黙している。
その間も、歯ぎしりの音や、その隙間から漏れるため息は聞こえていた。
たっぷりの間を開けて、ようやくその重い唇を開く。
「……殻無は放棄。中身は第二に引き継げ」
「はい。そのように手配します」
今の主人の機嫌を損ねるのは得策ではないとばかりに、秘書は隅に控えていた部下に目配せする。明日では遅い、今すぐに動け。
合図を受けた一人がそっと静かに部屋を出て、ひと息つく間もなく新たな指示がやってくる。
「おかわりを」
「……はい」
これ以上は止したほうがいい。上等なワインとはいえアルコールだ。飲みすぎはそのまま毒になる。
しかし不機嫌な雇い主に意見するには彼はやや小心者だった。小言をぐっと呑み込んで慎ましく近寄り、ボトルを傾ける選択肢を選ぶ。
とくとくと注がれるワインの向こうに広がる夜景は、百万ドルには程遠い、あまりにありふれた安っぽい景色。それを酒の価値で騙し騙し、優越感に浸っている。
「……予想外だった。まさか暴走するとは……思わなかった」
完璧主義の男は、予定が狂うことを極端に嫌がる。常に自分が世界を回し、思い通りにならねば目に見えて苛立ちを募らせる。彼の場合、なまじ金と頭が回るせいで余計にたちが悪い。
愚痴のような、説教のような、嘆きのような語りが続く。
「あれの発動条件は、君らも知っているだろう」
「ええ、まあね」
返事をしたのは秘書でも、ましてやその部下でもない別の誰かの声だった。敬語を使っているのだが、相手を対等か、心の底ではそれ以下と位置付けている。見るものが見ればそう推察するのは容易だ。
「あなたに千度聞かされましたから」
「――君の母君が、何か手を出してくれたんじゃあないだろうね?」
疑いの目は真正面のガラス窓を通して、背後に佇む彼らにも見えているはずだった。
「さあ、どうでしょう」
二人して並ぶ妙な雰囲気の青年たちは、互いに絶妙な距離を保ち、男の背中を見つめている。
特徴はそれぞれ、和服と、赤髪。
受け答えをするのは赤髪のほうだ。男の疑惑の問いかけに対し、不思議そうに首をかしげる。
「互いに牽制しあっているのが現状ですから、俺の目を盗んで何かやらかした可能性はなきにしもあらず、でしょうか」
「……ふん。まあいい。結果的に被験体の確保が早まることにはなったが……」
飄々とした雰囲気を崩さなかった赤髪は、被験体、という単語を聞いた途端にぎらりと眼を光らせた。
男は背を向けていたが、皮肉ながら彼もまた、ガラス越しにその姿を捉えることになる。向かいのビルの薄橙の明かりに混じった狂気的な光を見た。
ぞわりとした気味の悪い気配に悪寒が走る。『それ』に背後を許していることが途端に恐ろしくなり、気がつけば振り返っていた。
「…………」
「なにか?」
そこには食えない笑みを浮かべて、後ろ手に手を組む青年の姿がある。訝しげに見つめても、にこにこにこにこ。笑ったまましらばっくれるだけだ。
隣の和服の男も、口出しせず人形のように静止している。腰に下げた太刀と脇差も、かちりとも音を立てていない。時間が止まったように虚空を見つめていて、この場の全てに興味がないのだな、と素人でもわかってしまう。
「……ち、」
彼らと協力関係を築いてから長いが、相変わらず得体の知れない連中だと舌打ちをした。
すぐにでも縁を切りたいところだが、共に優れた戦闘能力を有しており、特に赤髪のもたらす情報は目から鱗の貴重なものばかり。欲しい情報をしっかり手中に収めてくる。
まるで最初から用意していたように。
恐らく偽名だろうが、それでも受け入れられるほどの情報源。列強だろうが出し抜ける気がしていた。
男はグラスに置き去りにされていた最後の一滴を飲み干すと、グラスを秘書に押し付け、膝を叩いて勢いよく立ち上がった。彼らに対する不信感を振り払うように。
「今この時をもって作戦開始だ。第一目標は被験体の確保。こちらでできるかぎりの手回しはしてある」
「…………」
「了解。じゃ、行ってきますね」
作戦開始の旨を聞き届けるや、無言のまま踵を返す和服の男。この部屋の床は大理石だが、足音が全く聞こえないのはどういう理屈なのだろう。
次いで、赤髪の男も気楽な返事をしてゆったりと部屋を出て行く。廊下に出て、扉が完全に閉まると、抑え込んでいた殺気をわずかに零した。
「楽しみだなあ」
色素の薄い唇をべろりと舐める様は、瀕死の獲物を前にした野生の獣そのものだ。目の前に餌がある。食らいつくだけで欲求が満たされる、そんな状態にある。
「……んん、興奮してきた。最高。この感じ、たまんないね」
先行していた和服男は相方に一瞥もくれず、淡々と歩みを進めている。
目指すは、山中――列強の一角、私設軍香坂の本拠地へ。
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