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よくない感情


「……水橋大河、か」



 通話の切れた携帯を机に置き、五十嵐は聞き覚えのあるその名前について記憶を探った。

 辻本に聞いた通り、確かに彼は国軍の将校だ。香坂で言うところの、高崎や中日向と似た地位にいる。全て人づてに聞いた話だが、曰く人一倍正義感が強く、曲がったことが大嫌いで、見つけようものなら曲げなおしてでも真っ直ぐにしようとする男だ。
 実力も十分で、その性格故に敵が多いが、同時に部下からの信頼も厚い。

 以前から国軍の経済面、人事面での不正は私設軍の頭を悩ませていたが、最近は輪をかけて深刻化している。私設軍の助成金は大幅に削減され、存続の危機に立たさせる小規模な私設軍が後を絶たない。私設軍が減ると、相対的に国軍の支配力が強くなってしまう。

 それに加えて今回の件。もう先送りにはできない。

 辻本は水橋と長い付き合いだそうで、国軍のありかたに疑問を抱いていた彼に話を持ちかけた。内部から水橋を筆頭に、国軍の上層部の不正を告発し、幹部の洗い直しをしようというのだ。

 現状、国軍を処罰する公的機関は存在しない。私設軍の不祥事は国軍が裁くことになっているのに、彼らは法に触れても隠蔽さえすれば誰にも咎められないのだ。


 国にとって、個人や一つの組織が力を持ちすぎることほど危険なことはない。



「忙しくなりそうだ」



 殻無から持ち出した書類を一枚取り上げて、五十嵐は珍しく歯を見せて力強く笑ってみせた。









 昼間の本部は比較的静かだ。兵たちはそれぞれ任務に向かい、非番で暇な連中がぽつぽつと見受けられる。私服であったり軍服であったりするが、IDさえあれば本部への出入りはできる。


 昨日の出来事を引きずったまま本部に顔を出した糸里は、代理にその表情と顔色を咎められ、本来の任務を撤回して無理やり休暇を与えられていた。


 そんなにひどい自覚はなかったが、代理はこうと決めたらてこでも動かない。大人しく引き下がるのが身のためだ。

 足を引きずるようにして歩きながら本部を出たのが数分前。寮までの道は風が吹きすさび、わずかな露出部位から肌を掠めて熱を奪っていく。赤く染まった耳を手で覆い、踏み荒らされた雪に新たな足跡を残しながら、ゆっくりと、着実に進んでいく。


 嫌だな、と。
 白いため息に音のない声を混ぜた。


 昨日の疲れが残っているのは指摘されたとおりだ。確かに体が少し辛い。筋肉痛と、擦り傷がいくらか疼いている。
 けれどそれすらも今は思い出したくなかった。任務に集中していれば、せめてその間だけは忘れられると思ったから、重い体を起こして用意してきたのに。

 代理はなにもかも見透かしている。故にこそ、糸里を任務に向かわせるべきではないと判断した。今の糸里は怪我を厭わず、作戦を無視した無謀な行動を独断で起こしかねないと。

 判断能力が鈍っているのだ。殻無での任務で、周囲の――特に、自分と同じだと思っていた千代の――力量を誤認したと思い込み、自分だけがなにもできなかったと自己嫌悪に陥っている。
 代理はその千代と話をするか、一人で頭を冷やすかの選択肢を突きつけ、糸里は結局後者を選んだ。
 逃げたのだ。


 糸里の思いは全て自己完結している。勝手に思い込んで、勝手に裏切られたと勘違いし、勝手に落ち込んでいる。そこに他人が介入してやる必要がどこにあるというのか。
 自分の尻拭いは自分でしろと、暗に代理は提示していた。それは薄々ながらわかっている。


――お腹空いた。


 そういえば、帰還してからなにも口にしていない。任務がなくなって気が緩んだせいか、今になって空腹と乾きが気になってきた。

 この時間なら、食堂もそう人は多くないはず。同室の兵は任務に出ているし、知り合いに遭遇する可能性も低そうだ。今は誰とも話したくない。けれど食料らしい食料は部屋にないし、あったとしても作るのが億劫だ。

 部屋に戻る前に食事をしようと、糸里は少しだけ早歩きで寮棟の食堂へ向かった。


 ところが、一人で静かに過ごしたかった糸里の思惑は、ある男によって打ち砕かれることになる。



「よ、糸里」
「……こんにちは」



 昨日の今日だったから休みになったのか、はたまた元々非番だったのか。食堂の通路を歩いていた糸里は、大量の肉料理と丼いっぱいの米を前にしていた西来に声をかけられた。
 本当に気づかなくて、ただ通り過ぎようとしていたところに。



「非番か?」
「非番になりました。代理に、今の僕を任務に出すわけにはいかないって」
「確かに顔色が悪いな。肉食え、肉」



 こんがり焼けた牛肉を突き刺したナイフを向けられ、香ばしい匂いに襲われながらも糸里は苦笑いしてやんわり断る。肉は好きだが、彼は千代とは違い、見た目に準じて少食だ。

 西来は冗談だと笑い、肉の端を噛んでナイフを引き抜くとうまそうに咀嚼する。とても一口では片付きそうにない肉片が、大きな口の中に吸い込まれていった。



「それ全部一人で食べるんですか?」
「ん? おう。いつもよりちょっと多めだけどな。大した怪我はしてねえけど、色々あって消耗したから」



 失った分は、とにかく食べて早めに補う。大きな任務の翌日の西来は、専らいつもの数倍、高崎並みの食事を摂った。ほぼ無傷で帰還した西来に必要だったのは治癒よりも、疲労を回復するための食事と睡眠だ。

 天河が絶対安静なので、任務の割り当てや部隊構成は別の幹部たちが協力して行っている。その中で西来は、今日だけではあるが丸一日の休みを与えられていた。

 たった一日なのは、西来の希望もある。少し休んで気力を養えばすぐにでも復帰できるとは本人の談だ、
 ただ、休みを求めたのもまた西来だった。相棒が思いがけない重症で搬送され、死んだように動かないと聞いて、多少なりともメンタル面へ影響している自覚があったから。

 それでも譲歩したほうだ。本当は半日でもよかった。高崎なんて、昨日の今日でもう任務に出ている。



「飯食いに来たんだろ? まあ座れよ」



 茶色一色、時々白、申し訳程度のサラダが一皿。そんな極端なテーブルの向かいを勧められ、糸里は少々ためらったが、観念して席に着いた。ここで断るのも気が悪い。

 食券を物色している間に、西来は食器を置いて立ち上がり、近場のサーバーから水を入れて戻ってきた。掠れた声や唾を飲み込む頻度から、糸里の喉の渇きを察したのだ。

 一つはテーブルにあった空のコップに。もう一つはサーバーの隣に積んであるコップに、それぞれ水が満たされている。



「ほら」
「ありがとうございます」



 目の前に置かれた水をありがたく手に取り、糸里は券売機を操作しながら一気に飲み干した。氷はないがひやりと冷たい。外は寒くても、飲む水はぬるいよりこのくらいのがいい。白湯は嫌いだ。どうせ温かいのを飲むなら紅茶やコーヒーがいい。


 喉が潤うと、いくらか声が出やすくなった。まったくいいところに気がつく男で、年相応に学校に通っていたら、男女問わず人気者になるのだろうなと思う。

 糸里は声の調子が戻った心地よい勢いのまま、なんとなく気になっていたことを聞いてみることにした。



「朝倉さんの様子、見に行きましたか?」



 自分の水を飲んでいた西来は、その名を聞いた途端にぴたりと動きを止めた。糸里も緊張して硬直する。地雷――ではないはずだ。

 糸里は直接見ていないが、朝倉は負傷者の中でも群を抜いてひどかったらしい。胸に大穴が開き、人間が生命活動を営める体温をわずかに下回っていたが、氷属性であることが幸いして死には至らなかった、とか。

 見舞いに行く資格なんてないような気がして、糸里は朝倉の病室を聞いても顔を出していない。……高崎と鉢合わせても困る。



「実は、まだ行けてない」



 意外な返事だった。仲がいいようだから、すぐにでも行ったのかと思っていた。

 それが伝わってしまったのか、西来は皿に乗せたナイフの柄を人差し指で撫でながら、形のいい眉を少しだけ下げて続ける。



「あいつは真っ先に運ばれてったし、俺は戻ってすぐ寝ちまったし。……今朝六時くらいに目え覚めて、今日の任務が別のやつに交代したって聞いてもっかい寝て。実は起きてから一時間も経ってねえのさ」



 風呂は入って来たぜ、と笑いながら、西来は弄り回していたナイフをようやく手に取った。



「飯食ったら行くつもりだ。お前も来るか?」
「……え」



 どう答えるのが正解なのか、ぱっと答えは出てこなかった。

 いや、同行する気はさらさらない。任務中も迷惑をかけてばかりだったし、行ったところで何かできるとも思わない。
――そういう問題ではないのはわかっている。見舞いは相手の無事を確かめて、元気付けたり、元気付けられたりする場所。互いにとって実益を得たり与えたりする場ではない。

 迷った末、糸里は無難な言い訳を並べ立てることにした。



「少し用事があるので。また時間の空いたときに行ってきます」
「……そうか。悪いな」
「いえ……」



 ああ、これは、バレたな。

 直感した。西来が言葉の前に置いた空白。少し細まった目。こういうことばかり気づいてしまう。

 本心を事細かに読まれてはいないだろうが、嘘をついたことは見透かされた。それを咎めないということは、元より強引に連れ出すつもりはなかったのだろう。

 だから、そういうことだ。いてもいなくても構わない。変わらない。

 心臓を握られたように、身体中を巡る血がざあっと引いていく。…….なんなのだろう。昨日から、よくない感情が爪先から、指の先から、頭の天辺から広がっている。誰に受け取るでもなく、それは糸里の中でどんどん生産されていく。


 もちろん、西来は悪い意味で言ったのではないだろう。用事があるからと断られれば、無理強いしないのはむしろ良い選択だ。
 だから彼は自然に食事を再開していた。周りにほかに食事をしている者はなく、咀嚼音と食器の音がいやに響く。

 やっぱり、最初に理由をこじつけて帰ればよかった。今から帰るのは、都合が悪くて逃げたように思われてしまうかも。

 言い訳をするタイミングを逃したことを後悔しながら、結局、一番無難な日替わり定食を購入した。


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あきゅろす。
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