辿った先に
廊下に出ると、市井は大きく息を吐き――吐こうとして思い留まった。
「…………」
あからさまに気を抜いた仕草をしてはいけない――何者かの気配を感じたのだ。
伸びをしかけた姿勢で正面を向いたまま、目線だけで左右を確認する。確かに視線を感じているのだが、近くはおろか、廊下の向こうの曲がり角まで静かなものである。
そこに誰の姿もないのを認めたことで、市井は自分を待っていた人物の正体を理解した。矛盾しているようだがそれで正解だ。慣れてしまえばわかりやすい。
虚空に向かって声をかけた。
さも、そこに誰かいるかのように。
「こりゃまた珍しい。おはよう。何か用?」
声が廊下に反響し、やがて解けて消える。しん、と静まり返った廊下に一人で立っていると、突如壁が蠢き、その一部が出芽したようにひょこりと突き出した。
親指ほどの大きさの突起は粘土をこねるように形を変えながら、迷った末に指人形のような簡略化された人型を選ぶ。
『や、どうも』
明らかに壁の中から聞こえる声と、声に合わせて手を振る人形。こんな気が狂いそうな精密な魔力操作ができるのは、市井の知る限り一人しかいない。
「……君が出てくるなんて珍しいね。五十嵐さんがお呼びかな」
五十嵐の事務的な補佐を本業としながら、本部近辺の森に魔力を張り巡らせて立ち入りを管理把握する少年。一歩でも踏み入ればたちどころに存在を捉え、不審な動きをした時点で周囲の木々を操り拘束する。
元帥秘書――彼は五十嵐の遠縁の親戚の遺児だった。一生使い続けても持て余すほどの魔力と、それを自在にコントロールする集中力、センス、才能。体こそ小さく体術では黄昏に一歩及ばないが、そのハンデを補って余りある強さを持っている。
属性は木。壁の中を伝ってきた木の根が人形を作り上げている。
秘書は本部のどこかから市井を探して――初めから予想をつけていたのかもしれないが――魔力を壁に流し込み、ここぞという場所で一部だけを純魔力へ変換した。
体内にある魔力は物質を透過し、純魔力は透過しない。また相性さえ良ければ、宿主の体を離れてもある程度自由に操れる。これらの性質を活用したもので、天河の防御壁も同じ要領だ。
それに加え、魔力を自身の声の周波に限りなく近づけて振動させることによる音声の伝達。
天才少年ともてはやされるのは伊達ではない。わずかな繋がりしかない五十嵐が彼を引き取ったのも頷けた。彼にはそれだけの価値がある。
その実は、気さくで朗らかな少年だ。……それが本性かはともかくとして、表に見せている部分は。
『ご明察の通り、元帥がお呼びです。ええはい、ちょっと切羽詰まってるみたいで。時間が惜しいから呼んでくるように頼まれました』
もっと重要な仕事があるからと、五十嵐はあまり秘書に雑務を託さない。基本は別の兵に任せ、場合によっては自らが動くこともある。
今回は呼び出しすらヒラ兵士に頼めるほど気軽な案件ではなく、かつ五十嵐も手が離せないらしい。
重要案件であることはまず確実だが、しかし市井とて、千代との話を早々に切り上げて始業に間に合わせようとしたのだ。どうせこうして迎えが来るなら、もう一言、二言くらい言葉を交わせばよかった。悪意のない嘘に騙されたような複雑な心境だった。
「……遅刻しないよう早めに切り上げたのに、意味なかったな」
『ごめんなさい。ノーティス本部にも話は通しましたから、執務室まで来てくださいね。僕は別の仕事があるので、失礼します』
ゴミ箱に紙くずを落とすのと似た感じで、木人形はしゅっと壁の中に引っ込んでいった。後には何も残らず、またすぐに数秒前の風景に戻る。
言うだけ言って去った彼もまた言葉通り、五十嵐に与えられた仕事に追われているのだろう。殻無の事件以降、水面下では様々な動きがあるらしい。
「……行くか」
ノーティス本部とは逆方向へ歩き出した市井の背中を、本部中に広がった九時の鐘が急かすように押した。
◆
「失礼します」
ノックして、耳をすませる。くぐもった返事が聞こえれば成功だ。市井は扉を押し開き、自身を呼びつけた男と一日ぶりの対面を果たす。
いつもの定位置で迎える五十嵐は、相変わらずかちっとスーツを着こなして堂々としていた。
「悪いね」
言葉とは裏腹の悪びれのない微笑みに、いちいち気を悪くしていては始まらない。
「何かありましたか」
研究所で得た情報のうち重要なものは、帰還してすぐ、つまり昨日のうちに五十嵐に話した。一晩で何か進展があったとは考えにくいが。
「……君が持ち帰ったあの書類。こちらでも調べたら裏が取れた」
「やけに早いですね」
「元々、睨んではいたからね」
机の上には数十枚の紙が広げられている。五十嵐は大きなワークデスクいっぱいに並んだうちの一枚を選び取り、扉の前に立つ市井に向けて差し出した。
紙切れをそっと向けられた市井は、 渋々ながらデスク前に歩み行く。
十日間も軟禁状態にあった市井が帰還して早々に五十嵐に手渡したのは、殻無研究所の所長室から持ち帰った書類の一部だった。
負傷者たちが本部に運ばれたのち、十分な人員を投入して調査は行われた。荒らされ、血まみれになった部屋の中で、市井は鍵のかかった怪しげな箇所を壊して回っていたのだ。
そして見つけたあの封筒。厳重に施錠された引き出しの最奥に納めてあり、一滴の血はおろか、汚れひとつない綺麗なものだった。
医療部隊がうるさいので仕方なく先にメディカルチェックを受けたが、本当はそれすら後回しにして五十嵐に届けたかった。
仮にあれが捏造でもなんでもなく、そこに記された相手に送るつもりの書面だったとしたら――それはとても情報部隊に任せられるレベルの代物ではなくなる。
その可能性を見越して、市井はまず五十嵐に託したのだ。
五十嵐曰く、裏は取れたと。
ならばこの紙の一枚一枚は最重要機密文書となる。市井は渡された紙に押し込まれた文字と、少しの写真に再度目を通した。
「笑えなくなってきましたね」
大まかな内容は闇属性の研究に関するもの。静川から入手したUSBに記してあった内容に加えて、研究中の魔物の様子などが事細かに報告されている。
最近起こった出来事を整理するとこうだ。
まず、本條で村人が全員魔物に為るという異常事態が発生した。それは行方不明の大将・結鶴折葉からの手紙を受け取った中日向により鎮静され、同時に静川のセレモニーに潜入しろという助言を受ける。
そして静川の拠点である棚垣で得られた情報により、『竜を造る』という無茶苦茶な計画と、大企業の介入があることが香坂の知るところとなった。
それから先は記憶に新しい。宮水が保有する第三研究所にて情報を集め、香坂は今回の殻無研究所に目をつける。
外部との交流がほとんどない研究所への潜入手段に頭を悩ませていた矢先、向こうから市井が招待され――あとは語るまでもない。
ここまで宮水が関わっているとわかっていながら、相手が『一般企業だから』という理由で手を出しあぐねていた香坂。しかし五十嵐は、彼と同じく私設軍を束ねる同業者たちに情報を共有しようとしていのだ。もちろん、信頼に足る人物たちに限られるが。
しかし市井が持ち帰ったこの書類によって、それすら封じられてしまった。
「……やっぱこの住所。国軍の、でしたか」
人を魔物にするという旨も包み隠さず記された報告書が向かう先。それはこの国が公式に所有する国軍の研究室だったのだ。
諸々のしがらみを振り払ってこの情報を一般公開したとしても、あらゆる手を尽くして握りつぶされてしまうだろう。国軍ならばいち私設軍である香坂と違い、処罰を気にする必要はない。思う存分に権力を震えるはずだ。
「……どうするんですか?」
市井が無遠慮にそう聞けたのは、弱点なんてなさそうなこの男が、この程度で黙っているようには思えなかったからだ。
「どうもこうも……国軍が絡んでちゃあ、ね」
さもお手上げだといったように両手を上げてみせる五十嵐。
――国軍がこの研究を容認している。
その事実を知ってなお、五十嵐はいつも通りの微笑を浮かべているのだった。
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