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信頼の重さ


 清算を、しなければ。

 その思いに駆られているのは自分だけではないはずだ――と、市井は決心して目を開けた。


 眼前には白い扉。少し右に引けば簡単に開くのに、気が遠くなるほど高い壁が立ちはだかっているように感じてしまう。市井の中に後ろめたさがある証拠だ。


 『殻無へ行くのを止めるなら、それは自分を信用していないと見なす』


 そうやって強引に言いくるめた結果がこれだ。十日間も音信不通となり、そのために多くの人が動くことになった。あのストレンジャーたちは無事だろうか。遺体がないということは、指一本残らず食い尽くされた可能性もあるわけだ。

 どちらにせよ、彼らは本部に戻っていない。市井がもっと上手く立ち回っていればそんな目に遭うこともなかった。……千代が腕を犠牲にすることも。



「…………」



 ノックをするために持ち上げかけた手を下ろす。

 らしくない。
 わかっている。市井という人物はもっと自信に満ち溢れた男だ。


 ようやく再会できたかと思えば、右腕が折れているわ気を失っているわで、まだ直接話せていない。搬送中に意識が戻って、腕以外はピンピンしていると聞いて少し安心していたが、それだけではいけないのだ。
 とにかく彼が仕事に復帰する前に、謝罪も含めて、面と向かって話がしたい。

 ……と、昨日眠る前に病室を訪ねる決意をしたのだが。

 いざ目の前に立つと上手くいかないもので、かれこれ十分はもたついていた。布団の中ではぱっと決めたことなのに。


――言うだけタダ、みたいな? ……くそ。


 情けなさで死んでしまいそうだった。酷使した身体は一晩眠れば元どおりなのに、心だけ殻無に置いてきてしまったようだ。
 中途半端に虚空に浮かべたままの手のひらで拳を握る。周りを取り囲む魔物は握り潰せるくせに、『開く』ことを前提とした扉という構造に阻まれている。


 始業の時間が迫っていた。こんなわだかまりを残したまま働いては、どんな失態を犯すかわかったものではない。ある私設群では、情報管理を担っていたチームのたった一つのミスで軍が壊滅させられたという話もある。
 その原因が、前日の酒盛りによる二日酔いで集中が乱れていたというからぞっとしない。

 ここに来た最大の理由は千代との関係を修復したいからであるが、仕事に私情を持ち込んではならないのもまたその通りだ。個人的なことで始業に遅れたとあれば、隊長として立つ瀬がない。

 市井は拳を開き、大きく息を吐いて再度手を伸ばした。



「――さっきから何なんですの」
「おおっ……と……」



 ようやく、と思った。
 しかし扉を開けたのは市井ではない。



「…………」
「……やあ、千代」



 その表情を言い表すなら、見ず知らずの軟派そうな男に道端で声をかけられた女性、だ。大きな目を訝しげに細め、市井のつま先から顔まで一通り観察して値踏みしている。
 この男を部屋に入れてもいいものか――即ち、対話をする意志と覚悟を携えてきたのかと。

 市井は挙動こそ戸惑っていたが、しっかりと千代の目を見ている。その腕のギプスではなく、目を。



「……天河はいませんわよ」



 市井の目的なんてわかっているはずだ。その場に天河がいないほうが心置きなく話せることも。つまりその言葉は、対話に応じるという了承の意でもあった。

 千代が支配していた扉の隙間がするりと広がる。



「お邪魔します」
「…………」



 あれだけためらってようやく立ち入ったのは、ごく普通の四人部屋だった。

 手前左側のベッドには神木がいる。頭まで布団を被り、膨らみからして胎児のように体を丸めて眠っていた。

 その対角線上にあたる右奥はシーツがやや乱れており、先ほどまで誰かがいたことが窺える。テーブルの上には飲みかけの飲料水や本が置いてあった。天河のベッドだ。

 そしてさらにその向かいのベッドに、スリッパの踵を引きずって歩いていた千代が今、座った。


 背中の半ばまである髪を解いていて、後ろ姿はまるっきり女性だ。しかし市井はその体に起こっている変化に気がつく。
 肩幅がわずかに広くなっており、その背中は前線に出る多くの兵と同じように、 逆三角形に近づいてきていたのだ。



「……だいぶ筋肉ついてきたね」
「教わる相手には事欠きませんもの」



 千代のメニューは、深夜兵があらゆる方法で鍛え、失敗と成功を繰り返しながら編み出したトレーニングを組み合わせたもの。要するにいいとこ取りだった。彼らは同じ志を持つ者には協力を惜しまない。

 立ちっぱなしなのもどうかと思うので、市井は千代のベッドの横にある椅子に座った。



「……怪我はどう?」
「骨は時間がかかるらしいので、何回かに分けて治癒してもらってますの。明日で終わりですけど、五割方治ってますわ。園崎先生って本当に凄い人だったんですのね」



 ベッドの端に腰かけた千代は足をぶらぶらさせながら、処置された腕を掲げてみせる。彼が履く青いスリッパが勢いで飛んでゆき、市井は身を乗り出してそれを戻してやりながら苦笑していた。



「復帰は?」
「様子見で一日ですから、明後日ですわね。発熱も大したことありませんでしたし」
「……よかった。あのさ、千代」
「謝罪以外なら何なりとお話くださいませ」
「…………」



 それを言われてしまったら、こうして口を噤むしかない。ごめん、と言いかけた声の代わりに息を吐いても、図星だったことをごまかすことはできなかった。千代のため息が、俯いた市井のうなじに刺さる。



「……全員生還したことがそんなに嫌なんですの?」
「いいや」



 そんなわけない。否定されるとわかっていてそんな質問をするなんて、意地が悪いにも程がある。

 なんだか、殻無の任務を経て千代は少し変わった。もちろんいい方向にだが、それよりも深夜に毒されているような。口調に覇気があり、顔つきも男らしくなった気がする。



「ならいいじゃない。アタシは市井さんに謝られる筋合いなんてありませんのよ。だからアナタが生きていたことにもわざわざ喜んだりしません」
「……うん」



 脅迫してまで信用させたのは市井自身で、千代はそれに乗ったのだから、市井が戻ってくるのは千代にとって当たり前のこと。だからそれについて特別、感情を示すことはしないと。
 その代わり、市井は信用を裏切るような真似をしてはいけない。たとえばそう――自分の判断が間違っていたと自ら申し出るなんて、ありえない。



「けど、他の皆はそうはいかないでしょうね。あの子たちには誠心誠意謝ってらっしゃい」



 追い払うような仕草をして、千代は寝転がって布団を被ってしまった。市井の反論は許さず話を断ち切り、狸寝入りを決め込む。

 見計らったように、市井のポケットの中の携帯が鳴った。アラームだ。すぐに本部に戻らねば遅刻扱いになってしまう。

 結局、話せたのはほんの数分だけで、扉の前でうろうろしていた時間のほうがずっと長かった。けれど心の重しは取り除かれていて、その分体も軽くなっている。

 市井はアラームを止めて立ち上がると、丸まって寝た振りをする千代の背中に向けて言った。



「ありがとう、千代」
「…………」



 もそりと蠢く布団に小さく笑い、市井はいつものように、悠々と白衣を翻して病室を出た。その足取りは軽くもはっきりしていて。

 足音が遠のいたのを聞き届けると、千代は寝返りを打ってからそっと布団から目を出し、出入り口を見た。



「…………」
「……嘘つきですねえ」



 いつから起きていたのだろう、分厚い毛布に埋もれていた神木がくぐもった声でくすりと笑った。千代はカーテン越しにそれを聞き、再び寝返りを打って神木に背を向ける。
 表情は見えないが、互いに相手がどんな顔をしているのか、なんとなくわかっていた。



「天河サンがせっかく気いきかせてくれたのに、お話、すぐに終わっちゃいましたね」
「言いたいことは言ったし、市井さんも満足したみたいだから、いいのよ」
「ま、俺は口出ししませーん。天河サンまだ本調子じゃないみたいなんで、済んだなら早く呼び戻してあげたほうがいいですよう」
「…………」



 千代は「わかってるわよ、それくらい」と反論し、枕の下を弄って携帯を取り出した。


 天河に電話をかけようとして、ふと思う。


 後から聞いた話だが、高崎は結界を破壊して殻無山に立ち入ったらしい。

 千代が救援を呼ぶのに成功してからも、花山が何度か本部に連絡を試みたらしいが、結果はそれまでと同じだったという。


 なぜ、あの電話だけ繋がったのだろう。


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