◆死灰屠り(完/連)
第六話
◆◆◆
中心街より僅かに住宅街寄りに聳え立つ大学病院に隣接するように建てられた監察医務院。
大学病院のように広大な敷地に高い建物という訳ではないが、三階建の、そこそこの広さはある建物だ。
この建物は、死因不明の死体の検案、又は解剖を行なう機関で、警察は勿論だが、実は、一般人でも検案要請が出来る事は、余り知られてはいない。
乳白色の壁と床と、消毒液の匂いの相乗効果で、清潔感を漂わせる廊下の長椅子に腰を下ろし、もう何時間が経過したのだろうか。
どこか夢現で、先刻の事が現実だと受け入れられない自分が居る。
脳裏にこびり付くおびただしい血と匂い、寸前まで生きていた人間が、瞬時に死体へと変貌していくあの惨状は、自分が思っていた以上にショックが大きかったようだ。
世間からは、非現実的だとされる状況や現場に接している自分が、こんなにも動揺するとは思いもしなかった。
助けたいのに助けられないと悟った、あの時……亡くなった男性と重なって見えた、守りたいと切に願う人。
いつの日か、やって来るかもしれない未来のような気がして、心底、恐ろしかったのだ。
ぽんぽんと、優しくリズミカルに背中の中心を撫でるように叩かれる。
その手は、無骨な自分の手とはまるで違い、小さくて、華奢で、柔らかくて、それでいて、暖かい。
寄り添うように俺の隣に座る春日は、何を話すでもなく、ただ、ただそうして、ずっと傍に居てくれたようだ。
心地よい人の温度が、夢現から現実へと戻してくれる。
「……有難うございます」
傍らから俺を見上げる春日の表情からは、喜怒哀楽は見受けられないが……俺を気遣う雰囲気が、なんとなくだが感じられる。
知らぬ間に春日の感情が、判るようになってきている事に気付き、自然と口元が緩んだ。
「彩季、要」
廊下の奥から、耳に馴染んだ声が聞こえてきた。
声の主は、靴音を鳴らしながら早足でこちらに向かってくる。
「右京さん」
「二人とも怪我はないか?……大変、だったな」
眉間に眉を顰め、労わる様に俺と春日の肩に手を置く。
急いで駆けつけたのか、普段はオールバックにキッチリと揃えられた髪が、少し乱れていた。
「この血は?」
右京の視線が、俺の方に留まっているのを見て、改めて自分の姿を見やる。
スーツの上着は着ずに車に乗せておいたままなので、現在は白いワイシャツにネクタイ、ズボンといった姿だ。
ワイシャツは勿論、ネクタイやズボンにも濃い赤褐色の染みを作っていた。
この血痕は、亡くなった男性のモノ。
「……俺の血ではないです」
「そうか。左京に着替えを頼んでおこう。俺の上着で、すまないが、良かったら使ってくれ」
右京は、見るからに高価そうなスーツの上着を、惜しげもなく俺の肩に引っ掛けてきた。
「う、右京さん、大丈夫ですよ! 汚れるといけませんから」
慌てて、上着を返そうと腰を浮かした俺の肩を、右京は押し戻すように、やんわりと掴む。
「そんなこと、気にする必要はない。今の俺に出来る事は、これぐらいしかないんだ。使ってくれないか?」
「……有難うございます」
俺と、そんなに年が離れている訳でもないのに、右京の、このさりげない気遣いは、人として尊敬に値する。
これで、仕事まで出来てしまうのだから、本当に俺と同じ人間なのだろうかと疑いそうだ。
肩に引っ掛けてあるだけだった上着に袖を通すと、自分の目に映る範囲の、殆どの血痕が隠れた。
右京が使用している香水だろうか、上着から仄かに香る匂いで、血の臭いも感じない。
ただ、それだけなのだが、俺の心が、ようやく冷静になったのに気付き、先程まで随分と混乱していた事にも気付く。
「右京、あの人達って、もしかして……」
右京は一つ頷き、長椅子に座る春日の隣にゆっくりと腰をおろした。
「ああ、ウチに来る筈だったんだ」
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