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Uターン
あなたは。好きですか。

大きなマンションのバルコニーに降りた母さんは、倫太郎さんが開けた窓からうちに入る。椅子を持ってくるように言い、あたしをその椅子に座らせた。腕をガムテープでぐるぐるに巻きつける。その気になればこれくらい焼けるけれど、このガムテープは拘束が目的じゃない。あたしが暴れようとガムテープを焼いた時すぐに飛びかかれるように、一瞬動きを遅らせるためのものだ。あたしの持ち物……、時計はポケットに入れっぱなしだったのが、もちろん見つかって取り上げられた。
「質問に、正しく答えろ。ちゃんと喋らなきゃあどうなるか、わかるな。あんまりオレを怒らせるんじゃなあないぜ」
倫太郎さんははらはらしているらしく、少し遠くであたしたちの様子を伺っていた。
「名前は?」
「あ、アイヴィー……」
「アイヴィー・ブロウズ?」
「そうだ……」
唾を飲む。母さんの眼差しは冷たい。
「両親の名は? なんだ?」
「言っても……。信じてもらえるか……」
そうつぶやくと、喉に刃が当たる。倫太郎さんの短い悲鳴が聞こえてきた。
「……父親は……、あ、アッシュ・ブロウズ」
「なんだと? アッシュ? あいつが? そんな話があってたまるか! オレをからかおうとしているならよせ!あいつをどこで知った!」
「父親の名前くらい普通なら知ってるだろ」
「でもあいつは、オレより四つか五つしか変わらねえんだぞ! こんなに大きい子供がいるわけなかろうが。それにあいつには家族もいない。こんな、わざとらしい格好に化けて
オレを惑わそうとしているのか? 無駄だ、化けているのならすぐに元の姿に戻れ!」
「あたしは化けてなんかない!」
「死にてえか!」
鋭い痛みが、腹を襲った。さっきまで首に突きつけられていた剣の腕が、あたしの腹に刺さっている。その腕は剣から人の手に変わり、あたしの腹の中をかき混ぜだした。
「っ……!、ぁぐ……」
「元の姿に戻ったら抜いてやるよ」
景色がかすむ。汗がだらだら垂れてきて、目を開けてるのによく見えない。ぐちゃぐちゃという血肉の音が鼓膜をも犯してゆく。手先がぶるぶる震えて、閉じない口からはよだれが垂れ出した。戻れなんて言ったって、戻りようがない!
「ほぅら、これはなんだろうなあ? 腸だなあ? この奥には子宮があるんだろうなあ?」
「グレイさん!」
倫太郎さんが駆け寄って止めようとするが、睨みつけられ蛇に睨まれたカエル、ごくりと唾を飲むだけだ。
ああ、ああ、痛いな。どうかしちまいそうだ。腹の中身をいじくられて口から胃液が漏れ出し吐瀉物にまみれると、母さんがくくと喉で笑う。
「おお、汚い。もしもし? 聞こえてるか?」
耳を引っ張られてすぐそばで声を出されても、指をぴくつかせることくらいしか抵抗できないのだ。涙で視界はゆがんでいる。どろどろの吐瀉物の間から喉でやっと息をしていた。
「どーやら、化けてるってわけじゃあ、なさそうだな。母の名前は?」
腹から腕が抜かれるが、痛みがなくなったわけじゃない。むしろ空気に触れてさらに痛んでくる。うめき声を漏らすと、あたしの顔を母さんが覗き込んできた。
「しゃべれるか? ゲロが喉を塞いでんじゃあないだろうな。倫太郎、タオル」
「は、はいっ」
倫太郎さんからタオルを受け取るとあたしの口にあてがい、椅子の背もたれに頭を乗せていたのを掴んで下を向かせ、あたしの首を強く殴った。
「お”っ! あ”!」
詰まっていた胃液をタオルの上に吐き出し、はーはー息をすると髪の毛を掴まれて首を上げられる。
「さあ、お前の母親の名前はなんだ?」
「……父親が、アッシュってのは、っ信じるのか?」
「信じねーが、あそこと同じ血筋ってのは見た目で嫌ってほどわかる」
「あ、あたしの母親は、……あんただよ」
その瞬間、また腹に弾丸のような足が飛んで、また血を吐いた。
「オレをからかうのが好きみてえだな、お前は。で、死にたがりみてえだ」
血がぽとぽと落ちる音が聞こえてくる。
「あ……、あたしの臭いが嫌だって言ったろう。それが同じ血が流れてる、証拠さ。近親姦をふせぐため、娘が父親の臭いを嫌がるみてーに、そういう仕組みになって……」
「……クスリでもやってんじゃあねえか。騙されて買っちまったんだろう。時間の無駄だったな」
足を下ろし、また髪の毛を掴んであたしの顔を見つめる。
「薬の臭いも……、酒の臭いもしねーな。だとしたらただの精神異常者か。殺しても問題なし、だ」
ちくしょう、なんでだ。ほんとに、ここで終わりが。笑さえもこみ上げてくる。腹の痛みを無視して、部屋には血と吐瀉物の臭い、それから高笑いが充満した。ガムテープを焼き切り、よろよろ立ち上がるが母さんはそれを睨むだけだ。こんなに大怪我じゃ、暴れても対したことにならないって知っている。
「そうだな、こういうのはアッシュが得意なんだ。オレは拷問とかすごい苦手なんだよなあ。呪い使いのお前は、きっと得意なんだろうな」
手の中には、母さんの手の中には懐中時計が収まっている。あの時計さえ取り戻せたら。でも元々の力でかなうはずないのに、こんなボロボロの状態で取っ組み合いにすらならない。母さんって、すごい人なんだ。頑張って勉強して母さんと同じランクになって地上のNDに行ったあいつも、情けない泣き虫だけど、ほんとに凄かったんだろうなあ。
ついに足にも力が入らなくなってきて母さんの足元にうずくまった。
「……おねがい。お願いだから、時計をかえして……」
「そんなに大事なものか。なら、かえしてもらえるならなんでもするよな」
「……」
「倫太郎、こっちに来い」
「な。なんですか……」
倫太郎さんの震えた声。
「髪の毛のさ、つけてるゴム、かしてくれよ」
いきなりあたしの髪の毛を掴むわけでもなくまとめて、ひとつに縛ってしまった。何事だと顔を上げると、ふたりの悪魔と天使が、あたしをじっと見てる。
「ほらなかなかの美人だよ。な、倫太郎」
「そ、そうですね……」
「どう、いるか?」
「え?」
「いやあ、お前がいるんなら譲るよ。オレ女の子をいじめる趣味は持ち合わせてないんだって。いらないなら殺すなりどっか売っとばすなり、オレの邪魔を二度としないように処理するさ」
この人にとってはあたしは、ただの邪魔で面倒くさい女だ。でもあたしにとっちゃあ自分を産んだ母親だ。その人に、売っとばすとか殺すとか、言われる日がくるなんてね。くるなんて。
思わず涙があふれてくる。ショックだった、泣いた原因、泣いた自分が。
「あ、あの、じゃあ、俺、引き受けます」
そう倫太郎さんが言った瞬間、母さんが腕を斧に変えた。
「ちょ、何するんですか」
「何って、腕と足を切り落とすんだって。お前、殴られて逃げられるぞ」
「でもそんな、切り落とすなんてないですよ。こんなに怖い目にあったんです、もう、グレイさんに逆らおうとするなんて思わないですよ。ね?」
ほんとに優しいんだ、この人は。小さく頷くと母さんはにたあと笑った。
「じゃあ、こいつの靴をなめろよ。逆らおうとは思えないんだろ?」
「グレイさん!」
「お前の血とゲロで靴が汚れてるぜ。ご主人の靴をキレーにしないと、いけないよな?」
数秒放心した。頭がぼーっとして、何を言われているのか理解できなかった。
「ほら見ろ、天使の、しかも覚醒もしてない天使の靴をなめる悪魔がいるか」
あたしが四つん這いになって倫太郎さんの靴に近づくと、短い悲鳴を倫太郎さんがあげた。そっとつま先に舌を這わせると、じっとそばで母さんが見ている。
「うわ、プライドとかないの、お前」
「……時計……」
手を伸ばすけど、時計を返してくれるわけない。
「グレイさん、返してあげましょう。とても大切なものなんですよ」
「やだよ、これはオレが預かっとく。そうすりゃ余計なことしねーだろ。じゃ、オレ明日仕事だから……、そこ片付けといてくれ」
そう言うと廊下の奥に消えていってしまった。ドアが閉まる音を聞くと、すぐに倫太郎さんがしゃがんであたしの手を握る。
「大丈夫ですか?! ごめんなさい、俺、止められなかったです。とにかく傷を塞ぎましょう!」
「……い、いや。これくらい平気だ」
腹の傷は深いけれど、親父の血を強く継いだんで再生能力は自慢できるくらい。手をかざすと手品みたいに傷が塞がってゆく。
「わ、あ、す、すごいですね。そ、その……、シャワーしますか? ここ出てすぐ左です。その間、俺はここ掃除しておきますから」
お言葉に甘えて、シャワールームに向かった。……どうしようか、時計を取り返さなきゃ。あれがなければあたしは本当にただの呪い使いの女でしかない。ただの呪い使いは、セオドアはおろか母さんにも勝てない。
どろどろの服を脱ぎ捨てていると、居間のほうから倫太郎さんの声がする。
「た、タオル、脱衣所の前に置いときますから。着替えも……、俺のですけど、置いておきます。着ていた服はどうしますか? 自分で洗いますか?」
「そうする」
「そうですか。では、その、着替え問題については明日解決しましょう!」
母さん……、母さんとうまく良い関係をもてないだろうか。どうしたものかな。時計を取られてる以上はあたしは近くにいなけりゃならないし、あちらだってあたしをどこかにやらないために時計を取り上げたんだろう。母さんは鋭いし、あの時計がおかしいってことを気づいたのかもしれない。
自分の服に付いた血と吐瀉物を洗い流し、地下に落ちてゆくそれを眺めた。
シャワーを終えて脱衣所のドアを開けると、バスタオルと大量の男物の服……。
「あがりましたー!? あの、どういうのがいいかよくわからなかったので、好きなの選んでください。袋も置いてますから、濡れた服はそっちに……」
気がきくなあ。べつに服にはこだわらない、適当なジャージとTシャツを拾って着て、廊下に出ると、居間のほうから倫太郎さんがこちらを見ていた。
「だ、大丈夫そうですね。お水飲みますか?」
手にはペットボトル。近づいて受け取ると、ぼーっとあたしを見て、なんか変だ。思い出したように、さっき母さんがあたしの髪を縛った髪飾りを返すと、ぎゃあと悲鳴を上げた。
「ど、ど、どうも。ありがとうございます」
「あたし……、どうしたらいい?」
「えーと……、ここではグレイさんに聞こえるかもしれませんからベランダ出ましょうか。涼しいですよ」
言われるままに窓からベランダに出る。まだ乾いていないのか、数本ジーンズがかかっていた。結構上らしくって、すぐ下はまだ消えないネオンサインや部屋の明かり、車のライトでまぶしい。

「俺、倫太郎っていいます。うその名前ですけど、でも気に入ってるんです。……さっきはグレイさんが、本当に、ごめんなさい。俺、弱いからあの人を止められないんです」
母さんを止められるなんてあんまりいないと思う。あの昂ぶった状態じゃあ、チャコだって怪しいね。
「その……、あの時計は大事なものなんですよね? 大事なものを奪ったり、女の人のお腹を蹴ったり、靴をなめろなんて言うのはいけないことです。俺は天使ですけれど、事情があって上から降りてきて、偶然出会ったグレイさんにお願いして居候させてもらってます。普段は、ちょっとこわいけれど、いい人です。でも、あんな人だとは思いませんでした」
「あんたに対しては、いい人で終わるとは思うけど」
「そうですね。グレイさんは最初についてこないほうがいい、朝まで外を散歩してろって言いました。無理やり来たのは俺のほうです。……悪魔って、こんな感じなんですか? 俺にこういう世界を見せて、もうこっちの世界に来るんじゃないって言ってるんでしょうか。俺は大人しく天使として生きるべきなんでしょうか?」
髪をまとめながら。
「……すみません、いきなり、こんな話をして。よく、わかりませんよね。あの時計は大事なものなんでしょう?」
「その……、何年も一緒に居た友人が故郷へ帰る時に、あたしにと特別によこしたものだ」
嘘は言ってない。
「そうですか。それはとても大事なものですね。そんなものなら、きっとお願いすれば返してくれますよ。グレイさんは悪い人ではないですから……」
言い終わる瞬間、窓が勢いよく開いた。母さんの手が伸びてきて、あたしの腕を掴む。
「グレイさん! また何かしようっていうんですか!」
「ちげえ! この女とんでもねえ化け物だ。あの時計をおじさんに見せたら……、お、お前には関係ないっ、部屋に引っ込んで寝てろ!」
部屋を引きずられて、さっき母さんが引っ込んだ部屋に連れて行かれる。その部屋には見覚えのある禍々しい扉、魔界への扉だ。その奥にはゴシックな家具が並んでいて、応接室と思われる部屋の大きなソファーには、赤毛の老人が腰を下ろしていた。
「あれが……、ルシファー」
思わず口に出してしまうほどの威圧感、魔力、カリスマ。あたしを蹴っ飛ばして扉をくぐらせ、続いて母さんもこちらにやってくる。立ち上がろうと顔を上げると、その老人の姿に釘付けになってしまった。




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