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Uターン
灰の羽蟲

瓦礫の影に隠れて息を潜めた。人類が築いた文明は、たったひとりの天使の手によって粉々になってしまった。
聖書では天使のほうがたくさんの人を殺しており、悪魔の殺した人の数はそれに比べ極端に少なく、そして悪魔は人間らしく不完全なものとして書かれているそうだ。
完全なものなどこの世にありはせず、完全に近すぎる不完全は気持ち悪さを覚える。あたしの知る天使たちは完全とは言えないが、それでも何より完全に近い。
恵まれた血と恵まれない運命を背負う倫太郎さん、その甥っ子の人とは思えないほど落ち着きはらったライラ。
そして、この世の悪意を固めて人の形にしたような、セオドア。
同じ空気を吸っていると知ると吐きたくなるくらい嫌悪感を覚えるのだが、中世的だがなよなよとしたイメージは持たせず、眉から顎にかけて両頬に大きく醜い縫いあとがあるが、それすらもなぜかアクセサリーのように自らを着飾るものとして存在している。
声は特別高いわけでも低いわけでもなくセクシー、物腰は基本柔らか、少し眺めの髪は細くて女性のようにサラサラだ。手足はスラリと長く、透き通る白い肌にピンク色の主張しすぎない唇。鼻は高く、目は大きくて少し垂れ目気味。無駄のない筋肉とほんの少しだけ形がわかる肋骨。
これをミケランジェロが作ったと言うなら誰もが納得するだろう。芸術的美しさもあるし、現代の人間がみても文句無しのビジュアル。
ただそんな顔と体に、最低の性格と性癖をくっつけた神様は、この世に居るのならきっと平等にしようと考えたんだろうな。
でもあのセオドアにこれっぽっち以上の良心があったのなら、これまで生きてこれなかったろうと思う。生きるためにライオンがシマウマを狩るように人を狩っていたのが、いつの間にかそれは性欲を満たす手段になる。それを満たすためにライオンはシマウマを狩りつづけ、ライオンの周りには汚なく食い散らしたシマウマの亡骸が散らばっている。
あたしがそのシマウマになるのは時間の問題だった。

「出ておいで、子猫チャン」
震える体を必死で押さえつける。傷がひどく、もうここから逃げきる体力は残っていない。腹に空いた大きな穴からは血が絶えず流れ出しており、一日ほど大人しく眠れば傷はなんとかふさがりそうだが、そんな時間などまるでなかった。
倫太郎さんが来てくれたらすぐに治るが、倫太郎さんは見つからない。気配は近くにあるのだが……。
「子犬チャンはもう僕と一緒だよ」
……どうして、どうしてこんなにも近いのにセオドアはゆっくり移動しているのだろう? 探しているとは思えない。あたしが動けないと知っていて、わざとあたしの恐怖心を育てるためにゆっくり歩いているのか?
それならば逃げて倫太郎さんを探してもいいかもしれない。影の中に潜ればなんとか撒けるだろうか。
あたしは親父似だからか、影への耐性が母さんと比べれば低く、数十秒ほどしか中に居られない。その代わりに体の変形や攻撃として扱う炎、毒の鱗粉や自らの分身として蛾を飛ばしたりできる。
蛾はセオドアにばれて殺されると本体であるあたしへのダメージが大きすぎるし、何よりもその体力が無い。身体能力ではセオドアに勝つ自信がこれっぽっちもない。生き残る方法は、やはり。
立ち上がり、周りの影を確認する。どのあたりに出られるか計算しておかないと、中に居られる時間が少ないしただでさえ大怪我をしているので生き残るために影を使うのに死んでしまう。
「み〜つけた」
ぞっとするような声に振り向くと、そこには。
緑色の髪を埃の舞う風になびかせて立っている男。
「チャコちゃん」
白いシャツに飛び散った血は自分のものではないのだろう。赤いリボンがまだ目立つ程度の軽い返り血。
あたしは動けなかった。それの纏っている魔力と、その足元にぐったりと倒れた、首輪で繋がれたそれ。
「ライラ……」
地面に散らされた赤い髪と生気を感じられない病的なほどに白い肌。所々ウロコが浮き上がっている。服は下着すらも剥ぎ取られ、首から伸びた鎖はセオドアが握っている。
「ライラ!」
呼びかけにピクリと反応し、顔を上げた。生きてはいるし、致命傷に見える傷は無いがズタボロだ。ぼんやりと濁った目でまっすぐこちらを見ている。四肢は震え、乾き切った唇は開かない。
そうか、ずっと歩いてきたのは、ライラを犬の散歩をするように引きずってきたんだ。
すぐにライラの頭は地面に落ち、肩で息をする。大怪我はしていないが、ただでさえ弱い体は打ちひしがれ体力がなくなっているようだ。
「僕は女の子を手酷く犯すのは嫌いでね、女の子は優しく抱いてから殺して死んだのを犯すのが一番すきなんだよ」
知るか、そんなことっ。ライラ、ライラを助けなきゃ。でも今のあたしにこいつに対して何ができる? 考えろ、考えなきゃ。母さんならどうしたろう? きっと母さんならこんな危機もなんとかしたはずだ。
「男は無理やりするのがすきだ。まさか自分がそんな目にあうなんて考えないだろう? 僕も考えたことないもんね。その反応と、だんだんと男が女みたくみだれるのを見るのが好きなんだよ。チャコちゃんにも見せたかったあ、ライラと僕の……。今から実演してもいい。ライラくんは、ワンちゃんみたいにセックスするのが好きだよ。ねぇ?」
鎖を引っ張り、顔を上げさせる。髪の毛はぼさぼさで泥や埃まみれ。半開きになっただらしない口からは少しだけ血が流れていた。
「だから散歩をしていたんだ。イヌの」
あたしの想像できない思考はしてないぞ。偶然なのかもしれないけど……。ライラの鎖を奪い取るのは難しそうだが、破壊するのは簡単だろう。問題はライラにはあたしほどの体力すら無く、自分一人で逃げることは不可能だということだ。
もう少し小柄ならなんとか連れて逃げられたかもしれないが、ライラは背が高くあたし一人では抱き上げることができない。それにそんな隙を与えてくれるとは思えない。
「ああ、チャコちゃん。どうしたい? ライラと僕の実演を見たいかな? 僕に優しく抱かれているのがいい?」
どっちもお断りだ、クソがっ!
あたしにできるのはここから逃げ出して倫太郎さんを探すことくらいだ。あの人に頼るしか、もう生きる道は残されていない。
「安心していい、殺しはしないよ。優しくしてあげる。チャコちゃんにはね」
そうつぶやくと、足元に蹲っているライラを踏みつけた。
「ぅ、ぐ、……。っ」
小さく呻く声。
「てめぇ!」
思わず声を荒げると、セオドアは満足気に息を吐いた。うっとりした表情で、はあ、っと。
「逃げちゃ嫌だよ、どうなるかわかるよね? さあ、僕のそばに来て寄り添って、この僕をあたためておくれよ。少し寒いんだ……」
ライラが殺されてしまう? ……ああ、そんなこと、だめだ。ライラは、ライラはあたしの、……。
「……チャコ。僕は、僕はもう……」
「イヌはしゃべるなよ、またお仕置きされたいのかい?」
ぐりりと足が押し付けられ、ライラは再び地面に突っ伏す。
こんな悲痛な叫びをする者を置いていけるかよ。あたしとライラが知らない者同士でもそうしたろう。
「ライラから足をどけろっ。それを外せ! そうしたらあたしはお前の言いなりになってやる!」
「ああ、チャコちゃん。その提案は素晴らしいものだとは思うけど、君はその提案ができる立場じゃないんだ。僕は君が逃げたらこのイヌを始末するし、僕は君を言いなりにすることなんて簡単なんだよ」
……これでいいさ。あたしはここに残ると決めた。ライラを一人にしてはおけない。たとえここで殺される運命だとしても、一人では絶対に死なせない。
なんとか時間稼ぎをして、倫太郎さんが来てくれるのを待つ。それだけだ。幸い、こいつは無駄なおしゃべりが大好きなようだから。
「なら言いなりにすればいい、あたしが抵抗しても、きっと抵抗にはならないんだろう。ならあたしは何もしない。犯すも殺すも自由にしろ」
不思議そうな顔をして、ゆっくりと近づいてくる。もう後ずさりしない。手足から立つ以外の力を抜き、直視しない。深呼吸して、落ち着くんだ。
「そういうとこが好きだよ。他の女とは違う……」
伸ばされた五本の指は、あたしの頬に触れた。顔を包み込むように覆い、まるで大切な宝物を扱うかのような手つきだ。
「さて、そろそろ僕の愛しい息子が君たちを助けにくるかな」
灰色の空に浮かぶシルエット。大きな翼を広げているが、所々ちぎれたり骨が見えている。
「ここまでうまくいくなんて思わなかったよ……」
「あああああああああああ!!!!」
獣と間違うような大きな咆哮に、セオドアはひるまなかった。シルエットは形をどんどん変え、竜のような鳥のような姿に変わっていく。
「いいのかい? そのまま僕を殺せば、この子らも巻き込まれてしまうよ。おまえの治療は間に合わないだろうね」
「……」
「クリス! 僕はおまえを作ったことを後悔していた。いずれ僕を殺しにくるだろう影の悪魔やルシファーを殺すために作ったはずが、おまえに裏切られるなんて思わなかったからね。でもおまえは優しすぎる……。この状況で甥っ子と親友の子ども、そして実の親を殺すことはできない!」
太陽の光を目一杯浴びたその化け物は黄金に輝き、毛並みはビロードのよう。その姿はまさしく『神』! 悪魔であるあたしが神をありがたがるというのも変な話だが、それほどの神々しさがあった。
「僕のほうが、より、完全だ。わかったらそこで自害するといい。おまえは自分に勝てないんだよ!」
「……おじさん。僕はどうなったってかまわない!」
ライラの振り絞った精一杯の声は、届いたのだろうか。
「あたしも、命なんて惜しくない。死んで守れるものがあるのなら、喜んで死を選ぶ!」
化け物は佇んだままだ。
「「セオドアを、殺して!」」
「やってみろ!!」
天にも届く叫び声を上げながら、その化け物はこちらに飛んできた。10メートルはあろうかという巨体。小さな顔には、優し気な瞳がついている。その瞳は何を見たのだろうか。
セオドアもあたしもライラも、その場から動かなかった。
激しい風が吹き付け、吹き飛ばされそうになる。化け物は吠え、鋭い爪の生えた長い腕を伸ばした。
「ああああぁあぁぁあああああああ!!」
その爪はセオドアの体ではなく、化け物の左胸に食い込み、赤い飛沫を飛ばす。
しばらく耳を劈くような悲鳴を上げた後、化け物は地面にうずくまり静かになった。
「はははははははははは!」
笑い声、絶望感。
「ああ、まさか、まさか本当に自害するとは。こんな面白い話他にあるかい? 僕の勝ちだ! 僕のほうがより強く、完璧で、美しい! 僕が生き残るのは偶然ではなく必然!」
こちらへ振り向き、勝ち誇った笑いを高らかに。だ、だめだ。倫太郎さんが諦めちゃったら、あたしたちは……。
「が、は……」
セオドアは目を見開き、笑うのをやめた。腹から爪が飛び出ている。そこからはおびただしいほどの小さな虫が湧き上がり、地面を覆い尽くしていく。
倫太郎さんは、まだ生きてる!
「ふふ。あんまり面白いんで、ふふ……。周りが見えなかった。死に損ないめ、僕が息の根を止めてあげるよ」
腹から爪を引っこ抜き、立ち直すセオドア。あたしに背を向けた。すかさず腕をライフル銃に変えて構えると、ちょうど右のほうにドアが現れる。倫太郎さんの魔法、時間を飛び越える『ドアー』だ。
「チャコちゃん。きみじゃこいつを殺せない。俺たちが生き残るために、そのドアは過去へ繋がってる。影からセオドアを出してしまった君を止めることができたなら……」
地面が揺れた。もう一匹の竜のような鳥のような、エメラルド・グリーンの羽毛に覆われた化け物がこちらを睨んでいる。
「みんな、みんな仲良く暮らせる世界が作れたら……、俺は、それだけしか、いらないのに……。テディ……、くん……、どうか……、元気で……」
「おじさんっ! おじさんっ! 死んじゃだめだ! 嫌だっ、 嫌だよ!」
ライラがよろよろと立ち上がり、倒れた倫太郎さんに近づこうとするが、セオドアに阻まれる。
「ああ、二人とも。いーい、顔だ。怖いんだろう?」
後ずさりし、あたしの盾になるように立つライラ。
「チャコ。……お願い。僕はあと一回だけ、攻撃を受け止めるよ。意識がなくなるまでの間、頑張って毒で足止めするから、僕とおじさんと、きみの家族と、すべての人たち。助けてあげてね……」
はあっと息を吐いて、振るわれる爪に飛び込むライラを、止められなかった。
「……あ、い、を……。……」
倒れてもなお、セオドアを睨み魔法を発動しつづける。まだ生きてはいるが、もう助かることはないだろう。
ちくしょう。ちくしょう。男どもは、こんな時に何もできないあたしに全部まかせるって? 産まれたての子鹿チャンみたいに震えてるってのに。
倫太郎さんのドアを、ライラの血を無駄にすることなんて絶対にできない! しちゃいけない! あたしは、あたしは!
血に塗れて暴れるセオドア。まだ毒が効いているようだ。……やってやる! あたしがこの世界をすべて、救ってやるんだ!
ドアノブに触れると、まるで血が流れているように暖かかった。近づくと、倫太郎さんのにおいがする。優しくて、少しだけおじさんっぽいにおい。懐かしいにおい。
ドアを壊そうとセオドアが向かってくる。
素早くドアを開け、飛び込んだ。その奥にはひとつだけ、真っ白いドアがぽつりとあった。
ドアからあたしを掴み殺そうとするセオドアの腕が入り込む、そんな気配。それを確かめて振り向いている余裕も勇気もありはしないから。

白いドアに触れると、頭の中に倫太郎さんの声。
「……チャコちゃん。過去のきみの過ちを止めるんだ。そうすればきっと、このひどく苦しい未来も消えてなくなるだろう。そうすればいまのきみはどうなるのかわからないが……、べつのきみや、べつの俺、べつのライラが幸せになれるから。最後の判断はきみにまかせるけれど、これまでセオドアと勇敢に戦って散っていったヒルデガードさんやきみの両親、たくさんの悪魔や天使、そして人間たち。彼らのためにも、きっと……。きみなら成し遂げられると思っている。みんなの未来を……、取り戻してほしいんだ。そしてできるなら、セオドア……、テディくんも助けてあげて……。本当は、優しい、ひとなんだ……」




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