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Uターン
いいことなんてないから

とぼとぼ臭いを追って歩くと、あのアパートについた頃には何時の間にか朝日が顔を出し始めていた。……疲れたなあ。頭を使うのは面倒だった。今日の出来事は思い返すと脳みそがパンクしてはちきれそうだった。
アイちゃんのうちには鍵がかかっていたので、影の中に潜って中に入る。
静まり返った部屋。カラーバーがうつるテレビ、毛布に包まって見つめている小さな影。そばには、長くて黒い髪が散乱していた。
「おにいちゃん」
アイちゃんはゆっくりこちらを向いて、眠そうに目をこすった。今にも目蓋を落として、眠ってしまいそうだった。
「おかえり」
「……ただいま」
アイちゃんはまた、カラーバーに視線を戻す。音の無い小さな空間に、ブラウン管に潜む小さな虫の騒ぎ声だけが鼓膜を震わせていた。
俺の足元には黒い髪……、川尻さんが横になって眠っている。
「一緒にね、おにいちゃんが帰ってくるの待ってたんだ。おねえちゃんは寝ちゃったけど」
「アイちゃんも寝な」
「学校行かなきゃいけないから起きてる」
「ちょっとだけでも寝たら? 起こしてあげるから」
「じゃあ……、そうする」
アイちゃんは川尻さんの隣に横になった。昨日部屋にいた犬(たしか名前は、コムギだ)も、それに合わせてアイちゃんの隣に伏せった。
……起こしてあげるとは言ったものの、俺も眠くてたまらないのだ。頭がずっしり重くて、いまにも倒れそうだった。めまいがしてきたので、しゃがんで壁にもたれる。
最高に気分が悪い。部屋がぐるぐるまわる。耳鳴りと酷い頭痛。それから逃れるように目蓋を落とすと、それらは徐々に収まって行った。意識と引き換えに。


突然の痛みに目が覚めた。気管がしまる感覚に、苦しさを覚える。体が持ち上がって、だらりと力無く垂らしていた四肢が強張った。
「やめて! やめてよ!」
……アイちゃん。まだ眠くて目が開けられなかったけれど、ゆっくりと開けてみる。……目の前に男の顔。だらしない格好をした三十代ほどの男が俺の服の襟を持ち上げていた。
「お前、誰だ!?」
とっさに『アイちゃんのいとこ』だと名乗ろうとしたが、アイちゃんはこの男のことをしきりにお父さんと呼んでいた。……うそが通じる可能性もあるが、危ない橋は渡りたくないなあ。でも、それ以外になんと言えばいい? 友達にしちゃあ歳が離れすぎているし。……だめだ、なんにも思いつかないや。こういう時は逃げるに限る。
幸い、両足は地面についており、男の落とす影は俺を覆っている。
男を突き飛ばし、素早く影に潜り込んだ。ほとぼりが冷めたら、また出て行こう……。
「おい! どこに行った! 出て来い!」
「あんた、まだ酔ってんじゃないの?」
「お父さん、やめて、おねがい」
「あのガキをどこにやった!?」
「知らない、知らないよ。痛い、はなして」
考える余地などなかった。勢いよくジャンプして、アイちゃんの影から飛び出した。影で銃を作って、男に銃口を突きつける。
男はひるんでアイちゃんから手を離した。……が、怖がっている様子などない。
「!? そんなおもちゃにビビるか」
銃でダメなら。右腕をナイフに変えて、額をチョンとさわる。真っ赤な血がたらたら垂れて、顎から落ちて行く。
「お、おにいちゃん……」
男の奥に、チャラチャラした格好の若い女性。……日本人のようだから、アイちゃんのお母さんではなさそうだ。大人二人は数秒の間、固まっていた。
「バケモンよッ!!」
女性が叫び、ガタガタ震えてぺたんと腰を落とした。
「あたしたち殺されるんだわ!!」
「馬鹿野郎、こんなガキに殺されるかよ」
「……朝のニュース見てないの!?」
「あ? なんだぁそりゃあ?」
……なんてこった! もう犯人だとばれているのか? いや、たしか俺はあそこで檻を溶かしたくらいしかしていない……。
倫太郎さんは何か証拠が見つかるようなヘマをするように思えないが。
「お、おにいちゃん……」
あんまり力を使わないほうがよさそうだ。アイちゃんはすっかり怯えて、俺の太ももにしがみついた。腕を元に戻すと、ここぞとばかりに男は掴みかかってきた。
少し離れていても、口から酒の臭いがプンプンする。
「どこの誰だ、っつってんだよ」
強く抵抗すると殺してしまうかもしれない。そうなると、ここに居る人間は全員殺してしまわなければならない。ええい、二、三発殴られるくらい我慢してやる。
そう心で身構えていたが、男はずりずりと俺を引きずって歩きだした。アイちゃんも後ろからこっそりついてくる。
「誰だ?」
「おにいちゃん……」
「どこのだ?」
「……」
洗面所に連れてこられた。水をたっぷり張って居る。……水は苦手だ……。幼いころのトラウマで、顔に水がかかるのが怖い。今更遅いかもしれないけれど、人間のふりしなきゃ。……でも、嫌だ。どんどん洗面台に溜まっていく水の波紋を見ていると恐ろしくてたまらないのだから。
「あの」
「あ?」
アイちゃんのいとこだと嘘をつこうとしたが、だめだ。俺はアイちゃんのお母さんの名前を知らないし、アイちゃんのお母さんに兄弟がいないかもしれない。……弟ってことにしようか。異母兄弟で、先日お互い会ったばかり……。これなら髪の色や顔立ち、瞳の色が違ってもいいわけできる。……が、やっぱり最初で行き止り。お母さんの名前……お母さんの名前……。
後頭部を掴まれ、鼻の先が水に触れた。もう目をあけてられない。
「言うなら今だぞ」
いい言い訳が思いつかない。どうしよう、どうしよう……。焦ると頭がますますごちゃごちゃになる。……まてよ。相手は確か酔っているんだよな? それなら、大雑把な嘘でもなんとなかるかもしれない……。やってみるだけやってみるか。
「あの、俺の顔見て何か思い出しませんか」
「あ? オレに外人の知り合いなんていねーよ」
少し後頭部にかかる力が緩んだ。腕を振り払って顔をあげると、まじまじと男は俺を見つめる。
「……ちくしょう! 嫌なこと思い出させやがって。てめー、テオドラのなんだ?」
よしっ! テオドラってのは多分アイちゃんのお母さんの名前だ! これはうまく行きそうな気がしてきたぞ。
「テオドラさんの弟です。……ちゃんと言うと異母兄弟でして、あんまり似ていないんですが」
「そっくりだよ。日本語ペラペラ喋りやがるところとか……」
それは関係ないんじゃないか? と思いつつ、まあとりあえずさっきの状況よりは何倍もいいものになった。足にしがみつくアイちゃんも安心したようだ。
「……な、なら、テオドラに会えるのか!?」
「いえ、ここには居ません。なんとゆーか……、思い出したように忘れ物をしたっていうんで、尋ねたんですよ。そしたらアイちゃんしかいなかったもんで、待っていたら何時の間にか眠ってしまって。ほ、ほら、時差がね……。スミマセン」
「そうか……」
男は力無く腕をだらんとさせて、居間へと戻って行った。まだ派手な女性は座り込んで、ぶるぶる震えている。
「……ひ、ひいっ!」
「おい、こいつぁ大丈夫だ。前の嫁の弟」
「え!? でも銃とかナイフは……」
「お前も酔ってんだろが。気のせいだよ。とにかく大丈夫だ」
「……」
アイちゃんのお父さんはテーブルのそばに胡座をかいた。とんとんと俺を見つめて床を叩く。……ここにこいってことね。イヌのコムギちゃんやアイちゃんもよってきて、派手な女性も空気を読んだのかいそいそとテーブルを囲んで床に座った。
「忘れ物ってなんだ?」
「わからないんですよ。ただそればっかりで。テオドラさん、姉さん、乳がんで……。先が長くないんです。だから忘れ物、持って行きたくて。心当たりありませんか?」
腕を組んで考えるお父さん。
「パッと思いつくのは気に入っていたコートとか、CD、マグカップ……。あいつ、気づいたら出て行っちまってよ、忘れ物ってくくりならいろんなものがある……」
「あ、この子のへその緒とか?」
派手な女性も考えはじめた。
「……へその緒欲しがるならよ、子ども自体を欲しがるんじゃねーか?」
「……そ、それ! それよ! 絶対それだって!」
「だよなぁ。俺もそう思ってた。アイはもう何年もお母さんと会ってないもんなあ」
アイちゃんのお父さんは、最初の印象と違って優しげだ。……ま、そりゃ娘が留守番してる家に知らない男がいたら怒るか……、酒も入ってるようだし。
「お前、お母さんに会ってこいよ」
「?」
コムギちゃんを撫でているアイちゃん。あんまり話を聞いていなかったらしく、不思議そうな顔をしている。
「……テオドラには……、新しい夫とかいるのか」
「いませんよ」
「……」
「そうか」
ああ、なんか良心が痛む。俺は誰のなんでもない。ここにいるべき人間ではない。ここをうまく人間的に平和的に切り抜けるための薄っぺらいうそ。
「俺は……、行っちゃだめだろうか。……許されるなら、俺、謝りたいんだよ。聞いといてくれよ。ダメだって言われたら、俺が謝ってたって、それだけでいいんだ……」
「聞いておきますよ。今日は会えてよかった。また連絡して、迎えにきますから」
「頼むよ。電話は多分だめだから……、郵便で」
「わかりました……、それじゃ」
素早く立ち上がり、そそくさと居間を後にした。アイちゃんとコムギちゃんが後ろをついてくる。
「おにいちゃん帰るの?」
「うん。また、お話しようね」
「……うん」
寂しそうにしたアイちゃんに手を振り、鉄扉を押し開けた。……まぶしい。昼の二時、三時といったとこか。よく寝たんだな……。振り返ってもう一回手を降って、アパートの外に出た。
よかった、無事に脱出できた……。しかし近いうちにまたあのアパートに行くことになるだろう。俺が何故ここにいたのか、倫太郎さんに調べてもらわなきゃいけない。
あの派手な女性が言っていたニュースを早く確認したい……。




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