[携帯モード] [URL送信]

Uターン
血の色を問え

時間が止まったようだった。唾を飲むことさえ、許されないと思った。セオドアは蕩ける血を腕で強く拭う。皮膚の表面が所々溶けており、皮の下の肉が露わになっている。例の虫が、奥から顔を覗かせている。拭った腕に付着したサミュエルの血は、服をじわじわと溶かしていった。
じ、っと、誰も動かなかった。
オレもサミュエルも、化け物も、ガブリエラやアッシュ、サリアも。ただそれを……、セオドアを見ていた。いや、見られていたのかもしれない。ふたつの血にも勝る赤い紅い瞳は、オレたち一人一人を、舐めるように見ていた。
「終わりの始まりだね、僕にとっては始まりの終わり。いいの、これで。これが君たちの答え? 誰も助からず、何もできずに死ぬのが望みだって、そういうこと?」
骨ばった指を、片方の手で撫でた。何気ない仕草にさえ、見ていると背中が冷える。見なければいいんだけど、怖いものから目を離すのはとても怖かった。
「いいよ、僕、もう知らないから。正義のヒーローになりたいなら漫画でも描いてなよ。それが望みなら、それが君たち二人の望みなら、今叶えてあげようか」
ドロドロの血を撒き散らしながら、グロテスクなのか、それとも美しいのか。緑の翼が広がり、雲のように月を隠す。
まずい。
くるりとターンしたかと思うと、セオドアは化け物の一部と化した、折れた街頭を引き抜いた。ガルルと吼えたが、セオドアが数秒睨みつけると、蛇に睨まれた蛙のように化け物も、は再び動きを止めた。
「こいつで君たちを串刺しにしてやろうか。眺めながら大事な、君たちの大事な人を虐めるのはきっと楽しいよ。ガブリエラ? ねっ?」
ガブリエラは返事をしなかった。ただじっと、ジャンヌと一緒にオレたちを睨みつけていた。セオドアの様子を見て、ヤツの機嫌を損ねないように動くつもりだ。万が一、自分が機嫌を損ねる原因になったら、かなり面倒だろうしな。虫の居所が悪ければ、殺されかねないわけだし。
折れた街灯の先は、オレ達へと向けられていた。むき出しになった電線は、焦げて黒くなっている。なんとなく、空気は熱かった。
たぶん、すっごいピンチ。足が疼く。逃げたい。
でも、逃げてどうなるのか。すぐに追いつかれ、無防備な背中を、オレの背中から腹へと貫通する街灯が見える。下がるのはダメ、なら。
『冷静に、裏をかいた行動をとる。予想外の行動をとり、戦いのリズムを自分のものにする』
単純な力や身体能力ではるかに劣っている相手に勝つには、それしかない。頭でこの場所やここに居る者の力、天気などを頭に入れて、組み立ててうまく立ち回るしかない。
セオドアは、街灯を持っているからそこまで素早くは動けない。ガブリエラはオレとは相性が悪く、得意の攻撃はお互いに通用しない。つまり、居ないのと同じだ。影の銃をぎゅうと握りしめた。汗で滑り落ちないように。ここで、オレがとる行動は。
影の炎を燃やし、アスファルトを蹴った。セオドアの横をすり抜け、化け物の元へと走る。構えたガブリエラに対して思い切り力をこめてそれでいて狙いを定め、銃弾を放った。乾いた銃声はアスファルトに反射する。
銃弾はガブリエラをすり抜け、サリアの首輪に当たった。獣のような叫び声が銃声に続いてあがる。首輪を破壊し、粉々になった金属が地面に散った。引きつらせていた黒いつばさを羽ばたかせ、サリアは深夜の空へと消えた。すぐにガブリエラは一瞬だけそちらを見て、ジャンヌに耳打ちすると、着地の衝撃でよろけたオレを睨みつけた。ジャンヌは、サリアを追うように消える。
何かされる前に、アッシュを連れていかなきゃ。後ろからは、サミュエルのうめき声とあえぎ声が聞こえてくる。粘っこい、ぐちゃぐちゃという音がする度に、声は上がる。
まずは自分の心配。立ち上がろうとすると、急に眩暈がした。どうしようもないくらいの吐き気と、手先の痺れが一気に襲ってくる。打ち勝つことができなくて、冷たい氷のようなアスファルトに身を投げた。
喉の奧からぐいぐい胃酸がのぼってくる。気味の悪さに、さらに嗚咽を漏らした。爪を黒く硬い地に立てる。その近くには、真っ白なブーツ。ガブリエラ。
「……く、くそ……」
腰が震えて、立つことができない。何故なのか、心当たりはあった。アッシュの灰を吸ったからだ。わずかだが、確かに吸った。少ない量のため、たぶん発動に時間がかかって、ちょうど全身に回るまで発動しなかったのだ。くそ、こんな時に。
オレを見下ろすガブリエラを、思い切り睨んだ。いまおきたのオレができる最大限の抵抗が、それだった。
「はは、体調不良か?」
ガブリエラは指で空気を撫でた、かと思うと、その瞬間にアスファルトに縫い付けられた手足と首が冷たくなる。少し動かすくらいはどうってなかったが、今度は本当に動かない。
目線を腕に向けると、腕は大きな氷でアスファルトごと固められていた。
火は、出ない。本物の炎ではないからか、溶かし切るのには火力が足りなすぎる。氷を溶かす前に、液体へと戻った水が、体力と炎を奪うだけだ。四つん這いの状態で固められ、屈辱的。
テーブルに並べられたたくさんの料理を見るように、満足気に数十秒オレを眺めたガブリエラは、自分の足を凍らせた。何をしたいんだ? そして、その足は、オレの背へと刺さる。
「うぇっ、ぅっ……」
衝撃で、もう出かかっていた胃酸が一気に漏れ出した。涙も一緒に溢れ出して、もう、顏がぐちゃぐちゃだった。隠すための腕は、見事な氷のオブジェ。腹で息をすると、まだ腹にあったそれが動き出して、また出してしまいそうになる。
「泣かなくてもいいじゃないか、うん?」
氷がついているならオレに強い干渉ができるようだ。しかしオレは、無い。できない。これはつまり、一方的にじわじわと嬲り殺しにされるって事……。そんなのは絶対にやだ。オレのプライドが許さない。けれど、どうしようもなかった。冷たい氷は、血液を冷やしてゆく。感覚が消えていく。
「……グレイちゃん!」
「ブロウズ!? お前……」
アッシュだ。後ろからアッシュのあの低く掠れたハスキーな声。いつもの調子、いつものトーン。元の、アッシュだ。オレの親友、最高のパートナーのアッシュ。
「グレイちゃん、ちょっと熱いかもしれないけど。死ぬよりましだと思って我慢してよね!」
目の奧まで。赤い火花が飛び散る。冷たい氷がじゅうと焼け付き、煙を上げながら固体は液体へと変わっていく。その液体でさえも焼け焦げて、嫌な臭いが鼻をついた。灰色というよりは、黒い灰が舞い落ちる。
焼けたアスファルトに倒れこんだ。皮膚が熱されたせいで、ヒリヒリとする。黒くてごわごわした動物の毛みたいな、質の悪い髪の毛。さらに髪の質が悪くなったような、気がする。
氷が溶けて、素早く体勢を立て直した、が。頭が揺らされたような。立ちくらみで、目の前が白くなる。足に力が入らず、前のめりに、ぐらりと熱されたアスファルトへと戻っていった。
「ひゅうっ、セーフだ!」
落ちた、かと思ったが。寸前で止まる。アッシュの髪が、付け毛が、オレの体を支えていた。ぐいっと持ち上げて、目と目を合わせた。
「あ、アッシュ。お前……」
ガラス玉みたいな透き通った、ピンク色の瞳。よく見つめると、グリーンの輪っかが浮かび上がる。昔と同じ、あの眼差し。唇をくいっと持ち上げて、軽く笑った。
「……ごめん。遅くなった」
「え……」
かかととつま先が熱い地面に触れる。黒い灰が、風に吹かれて飛んでいった。
「やはり……、やはり。悪魔など信用するものじゃあない。ユーリスの言った通りだったとは、な……」
ガブリエラが焦げた体を庇いながらヨロヨロと立ち上がると、アッシュは横目でガブリエラを睨むと、髪でオレの腹に巻きついた。
「ヤバいよ。とりあえずここからは逃げよう。何よりもぼくらの命が先だし」
後押しされて、反対方向へと走る。化け物が吠えたがそれっきりで、それからは物音さえも起こさなかった。

少し走った先に、壊れかけた街灯で照らされた、真っ赤な髪があった。腹に街灯が刺さっており、道路に深く埋め込まれている。真っ赤な髪は、まるで影かのように、ストンと落とされた血でさらに赤く染まっていた。
街灯に手を添えているのは、大きな傷を顔に持った、緑髪の天使セオドア。街灯の下で痛みに喘いでいるのは、うつろな目をした、ウロコだらけのサミュエル。
「サミュエル!? 大丈夫か!」
声をかけたが、特に反応を見せない。立ち止まろうとするオレの背を、アッシュは押した。
「だめ! ここで止まったら死ぬよ!」
「じゃあ、サミュエルは……」
視線が、思わず、街灯を握ったセオドアに向いた。ドロドロに蕩けた血で赤い顔の奧に、ギロリと憎悪を乗せた視線が帰ってきた。目をあわせれば、殺されると思った。目をあわせなくても、じきに殺されると思った。少しでも生きていたかったから、すぐに視線をそらしたい、そう思った。けれど、そんな勇気なんてオレの身体のどこを探しても、見当たらなくて。動けなかった。瞬きでさえも、できなかった。乾いていく眼球と、ひっそり息を飲む。
「アッシュ。僕は、悲しいよ。僕と君は分かり合えたと思ってたのに」
「でも、ぼくは君の事、全然知らないけどな!」
振り返ると、街灯を引き抜き持ち上げたセオドア。高く掲げられた真っ赤な身体は月と街灯の光に照らされ、なんとも不気味だった。旗のように、赤い髪がはたはたと揺れている。言葉にならない濁った喘ぎ声が、粘っこい水音と一緒になってアスファルトに落ちたようだった。ーー死んでない。
「酷いこと沢山したでしょ。ごめん。埋め合わせは、しっかりするよ。でもね、ぼくはいつもグレイちゃんの味方だよ。絶対に生きて、帰ろうね」
走りながら、前を向きながら。勝機があるかは、わからないけれど……。でも、アッシュが横に居る。それだけで、なんとかなりそうな、そんな気がしていた。セオドアが追ってくる様子は、ない。ガブリエラも、気配を消していた。
「お前、いつから元に?」
「警察に行った時。最初から。話聞いて、絶対に眼鏡くんを安全な場所に逃がしたかった。そうしないと、危なかったろうからね。なんとか片方殺せれば、いいんだけど。特にセオドア。ガブリエラは、まだ眼鏡くんの居場所を知らないからさ」
「つまり。アッシュ、お前は?」
「もちろん、ばっちりに決まってるでしょ! 近くにね、セオドアの潜伏場所があってね。地下なんだけど、そこに連れていった。敵の懐に居たほうが、殺される心配も無いってことさ。セオドアの居ない時を狙って助ければいいよ」
相変わらず、抜け目がないというか。見事な演技というか。どうせ、またどこかに蛾を飛ばしているのだろう。ここまで天使を騙してやってくれたんだ、生きて帰らなきゃ。
防衛戦を下げ、構えた。大丈夫、そばにアッシュがいるし。親父だってついてる。怖いものは、壊せばいい。
橋が揺れた。縦の揺れ。大きな音。セオドアもガブリエラも追ってこなかったが。化け物が、ゆっくりとオレ達を狙って、アスファルトをよだれまみれにしながら、鳴き声を上げながら追ってきていた。
「タ……ケ……」
「……グレイちゃん。あいつ、なんか言ってる?」
「イ……イ……」
「……喋ってるな。たぶん、本体になったやつがなんか言ってるんだ」
まるで助けを求めるかのように、化け物は腕と思われる部分を伸ばした。
「……グレイさん……」
「あいつ、オレの名を!」
聞き取りにくかったが、確かにオレの名前を呼んだ。セオドアめ、わざとオレの知り合いを本体に選びやがったんだ。
「助けてください、痛い、痛いです……」
「……お前の名は!?」
アッシュにやめたほうがいいと止められたが、知り合いと分かった以上、名前を聞かねばならないと思った。名前で呼びかけてやれば、自我があるようだし、暴れることも無いと。
「モーガン。モーガン・ヘイル」
「……大人しくしてろ! オレが、絶対に助けてやる! 分かったな!」
小さな、誰にも聞こえないような音で、一回だけ、舌打ちをした。




[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!