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ひとつぶの明瞭

改めて振り仰いだ建物は、特殊さなど微塵も感じさせはしない。ファミリー層向けの、ごく普通のアパートメントだった。
煉瓦色の外壁に、縦長の引き上げ窓が等間隔で並んでいる。内壁に張り付いた、古く勾配のきつい階段を上る。手摺から身を乗り出して覗き込んだ先には、四角くとぐろを巻いた階段が一階まで続いているのが見てとれる。昼間でも薄暗い廊下に、一人分の靴音だけが反響していた。
すれ違う住人に訝しげな視線を向けられつつ各フロアを一通り回ってみたけれど、数分後には二人揃って建物の入り口に立っていた。


「すみません…せっかく連れて来てもらったのに」

異常が日常の街ヘルサレムズロット。限りなく騒がしいこの街にも、ひと息吐ける場所は少なからず存在する。
頭上には相も変わらず重たげな霧が立ち込め、晴れない心を映したような弱々しい光が降り注ぐ。
ネジをいくつも飛ばしたような喧騒から離れ、緑に埋もれた広い公園の一角に設置されたベンチの上、私はツェッドさんの広げる地図の上についた赤い線を眺めていた。

丸印は三つ。そのうち二つには既にチェックがついていて、残る一つにも書き足される。
厳格なドアマンがエントランスで目を光らせているようなことは無かったものの、入れるのは廊下がせいぜいだ。まさか部屋に押し入ってゆく訳にもいかず、知り合いが住んでいたなんて都合の良い展開もある筈は無く。最上階まで、同じ廊下を幾度も眺めただけで終わってしまった。

確かに何かが引っかかったと思ったのに。いざ訪れてみると、手掛かりどころか特別な所の一つも見つけられはしなかった。何の変哲もないアパートメントが、どうして他と違って見えたのか。引っかかりの原因すらも特定はできずにすごすごと戻ってきた次第だ。
謝罪にツェッドさんは首を振る。気にしないで下さいと、優しい言葉をかけてくれる事に気持ちが温かくなる半面、同じだけ申し訳ない思いが湧いてくる。

「それに全く収穫が無かった訳でもないですよ」
「そうですか? 同じようなアパートばかりで、私には何にも…」
「だからです。三つとも同じような外装だったでしょう。レンガ調では無く白い外壁に、造りや建物自体の大きさも」
「そう…ですね。言われてみれば…」

この周辺は赤レンガが目立ち、思い出したかのように時折ぽつりぽつりと白い壁が混じる程度だ。いくら似た建物ばかりが並ぶとはいえ、その中で三件が三件とも同じ様相をしていたのはおそらく偶然ではないとツェッドさんは言う。
本当は大収穫だったんですねと手を打てば、ツェッドさんが表情を緩める。

「ようやく道が見えましたね。何がどう貴女と繋がっているのか、確かめないと」

レオ君にカメラを借りてくればよかった。言ってツェッドさんはふと私に目を止め、その目を少しだけ細くする。

「気のせいかと思っていたんですが、今日は少し色が薄いですね」

ふいにそんな事を言われて、空を見上げた。分厚い霧の向こうにあるはずの空は、色が薄いとかいう以前に、時々そこにちゃんと存在するのかも疑わしく思えることがある。
どういうことなのか、答えを求め彼を見ると、あぁ違いますと水かきのついた手がぱたぱたと振られた。

「空ではなくて」

そう言ったツェッドさんの視線が何処へ向いているか考えたら、その先にあるのは自分だった。
言われてみれば、少し透けてる…のかな。
下を向けば胸元から爪先までが一望できる。あんまり分からないけれど、ちょっとだけ薄いというか、褪せてるというか…。そんな気はするかもしれない。
背中側とか、角度を変えたら違ってくるだろうか。

目の前に手を広げてみると、肌の向こうにぼんやりと景色の色が混じっていた。
いつもはどうだったかなと思いながら透かし見てみるけれど、思い出せない。
あちこちさ迷った手の向こうにほんのちょっとだけ緑を混ぜたやわらかな青色が見えて、あ、好きな色だなと思ったら指の隙間にツェッドさんの顔が覗いた。
慌てて下ろした手の向こうにいた彼は、まったく表情を変えないままに少し首を傾ける。

「体調に変わりはないですか?」
「…はい。平気だと思います。特に何かが違う感じはしませんから」

なにしろ言われるまでまったく気付かなかったくらいだ。
そもそも、体調の変動はあるんだろうか。なさそうだ。

「たまにそういう日がありますよね。注視しなければわからないくらいですが」
「自分では全然。そうなんですか?」
「…時々。もし貴女から見て変化がないのなら、僕の気のせいという可能性もありますし、ひょっとすると知覚の方に揺らぎがあるだけかもしれません。他の人が常時貴女の事を視認できる訳じゃないように、僕の感覚も安定しているとは限りませんから」
「あ……そうですよね」

今見えているからと言って、明日も明後日もその先もずっと見えている保証なんてないんだ。
その辺りは今度レオ君に確かめてみますと言って、ツェッドさんは地図をきっちり畳んでいく。それが仕舞われるのを待つ合間、もう一度広げた手を持ち上げてみる。濃霧の向こうからじんわり投げかけられる陽の光に翳した自分の手も、なんだか霧の一部のように見えた。

「すみません」
「え?」

突然の謝罪に上げていた視線を下ろす。

「あまり気にしないで下さい。貴女自身が変化を感じていなかったのなら、おそらくは受け取る側の問題です」
「…ち…違うんです。そうじゃなくて……あの…」

口に出すのを躊躇うと、なんだかとてつもなく恥ずかしいような気がしてくる。
ふと頭を掠めていった考え。

もし、私が見えなくなったら、ツェッドさんは何を思うんだろうか。
ある日突然、テレビのリモコンを操作したみたいに、ぷつんと回線が切り替わってしまったら。もし、それが一時的なものじゃなかったりしたら。
少しは寂しいと思ってもらえるだろうか。それとも、全て解決したと肩の荷が下りた気分になるだろうか。

「……ツェッドさんに気付いてもらえなくなったら、きっとすごく寂しいんだろうなって…」
「………」

ツェッドさんが、停止ボタンでも押したみたいになった。無表情のままぴくりとも動かない。私にもそれ以上の言葉はなくて、口を噤んで座っているしかない。
しばしの沈黙。どうしようかと顔を俯けた時、あの、と声がかかった。

「僕には今、僕に見えなくなる事が嫌だと聞こえました」
「はい。嫌です」
「……やめましょうか、色々とややこしい」

戻りましょう。促し、事務所へと戻るべくツェッドさんが歩き出すのに私も続く。
後をついて行く構図は、路地裏で彼を見たあの日と変わっていない。

もし、ツェッドさんの目に自分が映らなくなったら、私はどう思うんだろう。
頭がおかしくなりそうなくらい寂しくなるかもしれない。案外、元に戻っただけだと平気な顔をしているかもしれない。
並べた考えにあぁ違うと頭を振る。
元々、全然平気じゃなかった。
途方も当ても、記憶すらも無い中で、窒息しそうになっていた所を掬いあげてくれたのは、ツェッドさんだ。
数少ない記憶をあっさり改変しようとしていた事に、ちょっとびっくりした。のど元過ぎればとかいうやつだ。

また誰にも見つけてもらえなくなったら、と考え、そうだレオさんがいると思い直した。聞いた話ではレオさんの目はとても高性能らしく――普通の目が良いとは違うらしい――私を見失うことはまずないんだそうだ。それでも私がどういう状態なのか分からない限り、確かな事は言えないらしいけれど。

一番初めに見つけてくれたのがツェッドさんだから、なんとなくそんな気がしているのかもしれない。彼から見えなくなったとしても、他の人には変わらず見えているかもしれない。

それでも、それは嫌だなぁと思う。
だって、きっとやっぱり―――…

ちょうど湖にかかる橋にさしかかった時だった。
視界の端に、動きを止めたツェッドさんの足が映って、俯けっぱなしだった視線を上げた。
湖へと足を向けた彼に手招かれ、固い石造りの欄干へと手を置く。それと同時に鏡のようだった湖面に浮かぶ景色がかき消えた。
うねる風が目に映り、水が巻き上げられる。細かな光の粒を散らして消えた小さな竜巻の後に現れたものに、自然と声にも力が入る。

「〜〜〜〜っ、虹です…!!!」

振り向いて言ったと同時に彼が小さく吹きだしたように見えた。

「失礼。そう。えぇ、そうですね」

耳にまで集まる熱。
背けられた顔に、聞いて良いものか迷いながらもおずおずと尋ねてみた。

「今、笑いました…?」
「…少し」
「……な…何かおかしかったですか?」

勘違いなんかじゃなかった。
たぶん、顔はもう真っ赤になってる。それを意識するだけで、まだ頬の熱が上がるような気がした。火照る顔を手で扇いでも、風が起きないので一向に冷えない。

「いえ。良かったです。喜んでもらえたみたいで」

その口調はぱきりとしているのに、声音はなんだか柔らかくて。
嬉しいのと気恥ずかしいのと、ごちゃごちゃしたものを全部ない交ぜにして私も笑った。
 



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あきゅろす。
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