水の呼吸 「じゃあ、今日はこの通りの西側から回って行きましょうか」 外出許可が下りた翌日から、私はツェッドさんに連れられて街へと繰り出すようになっていた。 もし私に関する情報が出てこなくても、あれこれ見ている内に何か思い出すかもしれない。レオさんも交えた話し合いで出た結論だった。ちなみにその話は、途中でザップさんが乱入してしっちゃかめっちゃかになって――脱線に脱線が重なって何の話だったかも曖昧になってしまって――最終的に殆ど放り投げるような形で収束した。 あれこれ考えた所で、要はシンプルな方法しかないのが現状だ。調べようがない以上、そうして地道に手掛かりを探して行くしかない。ツェッドさんは聞き込みを。私はあちこちを見て歩く。けれど、今の所分かったことは何も無い。 広げた折り畳みの地図を片手に、ツェッドさんは赤いマジックで大きな通りに沿った2ブロック程度を囲った。 通りの東側は既に赤い斜線に塗り潰されている。今日はこの辺りを中心に、と尖った指先が赤く囲われた部分を指す。 行き過ぎる異界人やヒューマーが、時折ちらりとツェッドさんに視線を投げて行く。傍から見れば誰もいない場所に話しかけているように見えているんだと思う。でもほんの一瞬だけで直ぐに興味を失くしたようになるのは、この街ではそれがとくに珍しい光景でもないからかもしれない。 「…ツェッドさん。私、負担になっていませんか?」 尋ねると、彼は地図を畳もうとしていた手を止めた。 「どうしてですか?」 そう訊かれると、難しいのだけれど。 一日のんびりしている日があったり、かと思えば急な呼び出しがあった後、揃って満身創痍ボロボロになって帰って来たりと、ツェッドさん達の日常は慌ただしい。 ソファでただじっと帰りを待っていた私に、戻りましたとだけ告げて、ふらふらと今にも転がり落ちてきそうな足取りで水槽横に設えられた階段を上り、とぷんと水の中に沈む。 そんな時、水槽の中の彼は酷く疲れた顔をしている。もう、何も考えたくないし考えられない。そんな顔だったりする。 それでも次の日にはこんな風に街を回ってくれたりして。 なんだか、申し訳ない気がずっとしていて…。 「これが仕事なので。特には」 そうには違いないのだけれど、それでも私が転がり込んだ事で増えた仕事だと思うとお腹の辺りがぐぅと重くなる。 「…見て回るだけなら、私一人でも…」 一向に出てこない手掛かり。ゴールは見えない。いつまで付き合わせてしまうんだろうか。見つかるなんて保証もないのに。 ふと思うのは、私は本当に“居る”もしくは“居た”んだろうかということだ。 身体が、お墓が、そういった物がどこかにあればいい。それが一番分かりやすい。 もしも身体がもう無かったとしても、どこかには居たんだと分かれば、少なくともここにいる私が何なのかははっきりする。スティーブンさんは色んな可能性を考えてくれているらしいけれど、このHLだ。可能性なんて無限にあるのかもしれない。 でも、もしも初めから無いものを探していたりしたら…。そんなの、無駄に手を煩わせただけになってしまう。色んな人の手を借りて、それでもし、何も出てこなかったら…。 全てが茫洋としすぎていて息苦しい。たぶん、息はしていないのだけれど。 言えない不安を丸ごと飲み込んだ私に、それだとどうしても限界がある、とツェッドさんは言った。 「僕と貴女の出来る事は違うので。もし何か手掛かりになりそうなものを見つけた場合は、アプローチ方法も増えます。貴女は人の目に止まらず行動できますが、物理的に何かを動かしたりは出来ませんよね。そんな時には僕がいた方が良い」 一度出直して機を逃すくらいなら、始めから行動を共にする方が効率的だと彼は言う。 「…そう、ですよね」 もし手掛かりを見つけても、扉の閉まった建物の中では手の出しようがない。上手く中に入り込めたとしても、今度は閉まったドアの前で立ち往生だ。ついでに、何かあった時の連絡手段もなければ、そもそも一人ではライブラに戻るエレベーターにすら乗れない。 駄目ですね、と笑うと、ツェッドさんは首を傾げた。 「私は…弱気を持て余してばっかりで。考える事はもっと他にあるのに」 当たり前の感覚ばかりが頭にある。今でも自動ドアの前に立ったり、つい人を呼びとめようとしてしまう。開かないガラスの壁。無反応に通り過ぎて行く人。一拍遅れて、ああそうだったと思い直す。これが今の私の当たり前だ。 少し考えるように間を置いて、ツェッドさんはゆっくりと口を開く。 「当然だと思います」 「当然…ですか」 はい、と返るのは静かな声だ。 「地に足がついていないと人というものはどうしたって不安になるでしょう。以前催眠か幻術の類で、まるで周りの物すべてが軟体動物でできているような感覚を経験したことがありますが、レオ君や常識を踏みつけにしているようなあの兄弟子ですら辛そうにしていました。有る筈の軸がないことは、自分の存在すら酷く揺るがすものだそうで。貴女も、足ではきちんと地面の感触を感じてはいても…」 途中でふと気付いたように「有りますよね?感触」と尋ねられ慌てて首を縦に振った。 それはある。生き物以外の、壁や床や家具、そういったものに触れた感触はしっかりと感じている。 それを受け、今の貴女は、と彼は言葉を接いだ。 「何も自分自身に関する情報を持っていませんし、当たり前にとっていた行動に随分制限がかかっている状態だと思います。それは広い海の中に身一つで浮いているようなもので、漠然とした不安ばかりがあるかもしれませんが」 そこで一度言葉を切って、でも、と彼は続けた。 「何者でもないことと、何もないことは違う。僕は、そう思います」 ――――それは、 口にしようとした途端、視界の端で何かが吹き飛んだ。巨大なゴルフクラブにも見えた何かはどうやら信号機のようで、光の消えたそれがタップダンスのステッキのように軽快な跳ねと回転を繰り返しつつ道路を横切り、交差する大通りの角に立っていたカフェらしき店に突っ込んでいく。毒々しい看板を掲げた店のウィンドウを叩き割った様子が遠目にもはっきり見てとれた。 爆発でも起きたのかと思ったけれど、立ち込める砂塵の中から現れたのは、恐ろしく巨大なシルエット。 その巨体の下にめり込むようについたタイヤ――たぶんタイヤだ――が断末魔の悲鳴にも似た音を上げながら強引に進行方向を変えつつ停車した。ドリフトの勢いで傾いた車体――たぶん車体だ――が地響きをたてて地面と平行になると、一瞬辺りから音が消えた。 通行人やそのペットまでが動きを止め、まるで一時停止ボタンを押したように動くものがなくなる。 静止と静寂。 通りにいた誰もが固唾を飲み見守った次の瞬間、ドゥルゥゥン、と改造車の排気音をもっと重々しく、ついでにめいっぱいにまで膨らませたような音が落ちてきた。 私にはただ大きいだけの音だったけれど、周りの街灯や街路樹といった細長いものが音を受け身震いをしたように見えた。 大通りいっぱいに幅をきかせたそれが動き出す。と同時に、伸ばされた腕がすかっと私の身体を通り抜けた。 「………」 「………」 既に踵を返していたツェッドさんと、無言で見つめ合う形になる。 「走って!走って下さい!」 「っわ、わたし、私も危ないんでしょうか!?」 「分かりませんけど、あんなのに飲み込まれてみたい訳じゃないでしょう!?」 あんなの、と指された先には車によく似た異界生物らしきもの。見た目は大型トラックとイソギンチャクを混ぜたみたいだ。擬態か融合か分からないけれど、進行方向にあるものを軒並み轢き潰しながら、車のルーフ部分からいくつも生える細長い触手みたいなものが、逃げ遅れた人を手当たり次第に飲み込んでいく。ノズルを外した掃除機のホースによく似たそれも被害を大きくするのに一役買っている。 あれに、飲み込まれるとしたら… 「そこ、悩むとこじゃありませんよね!!?」 「すっすみませんつい…!中から見るとどんな風なのか、気になって、」 もつれそうになる足で懸命に走りながら弁解を試みると、気にしてる場合ですか!と叫ぶ声。 僕について来たと聞いた時にも思いましたけど、と言葉は続く。いつになくボルテージの高い声も、後ろから迫る轟音に掻き消されそうだ。 「断言してもいい!その好奇心はいつか身を滅、」 走りながら私を指さしたツェッドさんが突然消え失せた。真っ黒なシャッターを下ろしたみたいだとそう思った途端、べちゃっとぐにゃっを混ぜたような感触の壁にぶつかって跳ね返された。 あ、中…。 そう思って見上げた先の暗闇が、丸い形に切り取られた。ぽかりとできた円の中、濃霧をバックにツェッドさんの顔が覗いた。 早く出て下さいと急かす声に、まだひだを蠢かせているそれをよじ登る。やっぱりべちゃとぐにゃを混ぜたような、水気の多いスライムみたいな感触を手や膝に感じた。 切断されたらしい場所からは粘液みたいなものが溢れていたけれど、そこに触れた筈の手は何かがついた様子もなくきれいなものだ。確かに感触はあったのに。 「…ツェ、ツェッドさん。何も見えませんでした。でも、私の背丈分くらいと、断面は、」 「そんな報告いいですから! 走って!!!!」 ぐらぐらと左右にブレながら転がってきた巨大なタイヤが目の前で止まる。側面についた口が、吸えない息を吸おうとするように開いたのを最後に、ぱたりと倒れた。歯並びがとてもきれいだった。 そこにいるよう指示された路地からこっそりと覗き見た先。いつも人と車でごった返している道は空っぽで、嘘みたいに遠くの方まで見通しがきく。小さすぎてはっきりは分からないけれど、舗装された道路が真っ直ぐ伸びるばかりのそこにいたのは、見知った人ばかりだった。 どうにか騒ぎを収め終えたクラウスさん達に連れられ、いつもの場所へ帰りつく。 ボロボロになり、重そうに身体を引き摺っている人達を見ていると、やっぱり申し訳ない気持ちになる。 部屋に戻ったツェッドさんも、扉を閉めるなりぐったりと重い息を吐いた。 お疲れさまですと、おやすみなさい。億劫そうに口にした彼が身体を引き摺るように水槽に向かって行くのを見送ろうとして、けれど 「あの…」 そう小さく声を出した。 返る声は無く、靴底が擦れる音だけがタイルの上を転がってくる。 小さすぎて届かなかった。でも、届かなくて良かったかもしれない。 おやすみなさい、と声は出さずにつぶやいて、自分のソファへ向かった時だった。 「…はい…!」 「ッ!?」 突然上がった声に驚いて振り返ると、ツェッドさんもまた同じだというように半身だけをこちらへ向けていた。 「…すみません、うっかり聞き流すところでした」 「いえ、何でもないんです。…おやすみなさいって言いたくて」 「…そう、ですか」 はい、と頷けば彼はまた歩き出し、水槽の横に設えられた階段をふらふらと上っていく。けれど半ばまで登ったところでふと足を止め、ツェッドさんはまたふらふらと階段を下りてくる。 「何でもなくないですよね?」 「え…」 「普段、こういう時の僕には話しかけてこないでしょう」 「………」 静かで、けれど冷たさは感じない声に、じわり、と喉の奥が熱くなる。 ありがとうございますも、すみませんも、詰まりそうになる声をどうにか押し出して、ぽつぽつと言いたかったことを並べてゆく。 今日、少し気になった場所があったこと。忘れないうちに、地図だけ広げてもらいたいと思っていたこと。 「どの辺りですか?確か最初にいたのがこの通りで…」 ペンから伸びる赤い線がストリートの名前を囲む。 「ツェ、ツェッドさん…!」 思わず伸ばした腕がペンを握った手をすり抜ける。彼の手に被って見えなくなった手には床にぶつかった感触だけが伝わった。 もどかしい。そんな思いからきゅっと眉間に力が入る。触れはしなかったけれど、それでも彼が手を止めて顔を上げる。 ですが、と言われ首を横に振った。 「ほんとに。本当に大丈夫ですから、もう休んで下さい…」 自分は眠る必要もない。それこそ朝まで考えていたって支障はないけれど。 少し考えるような間があった後、彼は静かに頷く。 「…なら、また明日聞かせて下さい」 「…はい。今日はありがとうございました」 ようやく少しだけ持ち上がった口元に、ほっと肩の力が抜けた。 [←][→] |