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She
  

鞄の内ポケットに手を入れてから、いつもその位置にある箱がないことを思い出した。この動作は今日だけで何度目だろうか。取り残されたライターだけが指先に触れる。
代わりに別のポケットをまさぐった指がケータイを引っ張り出した。上部の突起を押すとネオンに比べるてはるかに大人しく真面目な明りが画面に灯る。それは葵が待ち受けをごくシンプルなものにしているからで、人によってはネオン街にも負けないぐらいごてごてしている事もあるが。

画面を確認して葵は軽いため息をついた。
着信なし。メールもなし。時刻は21時12分。既に1時間12分の遅刻だ。
1時間程前に一言だけの簡単なメールが入ったっきり連絡はない。『ごめん遅れる』なんてこっちの事情お構いなしもいいところだ。なんで遅れるのかもどれくらい待てばいいのかも説明はいっさいない。

用は済んだでしょと突き放すように再び真っ黒に戻った無愛想な画面をしばらく見つめ、ネオンがうるさい夜の街に目を戻す。これでもかと身体を見せつける服で客引きをする若い女に、こちらも客引きなのかへらへらと愛想よく道行く女に声をかけている男。どこのスピーカーからも一様にセンスを疑うような曲が流れ、タイ式マッサージを謳う看板から打楽器や笛やらをふんだんに使った民族的音楽が流れている。どれもこれも自分が自分がと主張していて騒々しいったらない。

けれどそれらの派手な装いをめくれば、ここは空っぽだ。もちろん温かさなんてものはかけらもないし、そこには熱さすらなく、冷たさすらも感じない空虚さが息を潜めているような気がしてならない。

道の端で自分とそう歳の変わらなさそうな女が、二回りほども上に見える男に腕を絡めてきゃっきゃとはしゃいでいるのを見て、あぁ不倫かななどと考える。その一メートルぐらい先を歩いているカップルはなんだか訳ありに見える。

ねっとりとした温度の無い街。なのにここは人で溢れている。
もしかするとその空虚さに溶け込みたくなるのかもしれない。
蛍光灯に集まる蛾のように。本能のように。引き寄せられずにはいられなくて。空いた穴を埋めたいのに、埋めてくれる人を見つけられずにいる人たちだ。

そう考えたら仲間がいっぱい。なーんて。
センチメンタルかと自嘲したその時だ。
「お待たせ」という声とともに隣に人が立った。


「待たせすぎ」


いっつもいっつもと膨れれば彼は「ほんっとーにゴメン!!」と顔の前で手を打ち合わせた。


「許して。御飯は奢るから」

「とーぜん」


尊大な返答に彼は笑いながら肩をすくめてみせる。


「それじゃあ行こうか、お姫様」


並ぶと背の高い彼の肩がちょうど目のあたりにくる。むき出しの肩と二の腕。なめらかというよりは若干水分の足りてない肌とごつごつした骨。


「手、繋ご」

「いいよ。はい」


差し出された手に重ねた手を大きな掌が包んだ。そのことに満足して目を伏せる。

いつだってこの手は温かい。





あきゅろす。
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