おもいびと ◆無常9 駅前のホテル。 狭いシングルルームでおれは陸と向かい合って座っていた。 どうしても離してくれない陸を連れて、おれは予約していたホテルにやってきた。家に帰れるわけなんてないから。 「……行っちゃうの?」 簡素なベッドに所在無げに腰掛けて、今にも泣き出しそうな潤んだ目をおれに向ける。 状況から察した陸は、憔悴しきった様子でポツリとつぶやいた。 自立できる力をつけたいと願うおれの思いを伝えると、陸は悔しそうに口を固く結んでしばらく考えを巡らしてから主張した。 「そんなのいらないよ。おれは背負われる荷物じゃない。おれは……おれだって自分の足でちゃんと立てる」 可愛い陸。 自分の足で立とうとするおまえはちゃんとひとりの男なんだな。 けれど、そう思うのはおまえにはまだ本当の力がないからだ。世界の真の姿を知らないからひとりで立てると主張する。それが無力の証だとおまえは気付いていない。 「まだ高校すら出ていないおまえに、どんな将来がある?衝動だけで家を飛び出して、それで自立した気になっても、まだ何のスキルもない未成年だ。どうやって生きていくつもりだ?」 陸の大きな目が、さらに大きく見開かれた。 思いも寄らなかった現実を突きつけられて戸惑いを見せる。 「陸、責めているわけじゃない。おれたちが認識している世界なんてちっぽけで、本当は自分の足元すら見えていない。だからおまえはまだ成長しなければならない。それはおれも同じだ。」 今までどうやってこの思いを伝えたらいいのか、ずっと考えながら過ごしてきた。 おれは、家を出て初めて自分の無力さと独善に気づかされた。愛したいと願って今すぐ手に入れたとしても、それはきっと無残に破綻するだろう。 大人の男は、相手の成長を阻むような愛し方はしない。もっと視野が広い、世界の一部としての自分たちを認識して、そのなかで自分たちの在り方を築いてゆく事が出来る。 揺るがない姿勢と包容力で、おれまで守ってくれていた柊司さんと百瀬さんのように。 おれは、そんな大人になりたい。 だから、陸…… 「おれたちは、それぞれの道を生きよう。力を身に付けよう。もし、その人生の中で大切な人が現れたなら、おまえは家庭を持て。……そして、おまえ自身が大人になれ」 「いやだ!どうしてそんなコト言うの?海斗はおれと別れたいの?」 陸は身を乗り出しておれを責める。 「おれはおまえを愛している。しばらく会えなくても家族なんだ。縁が切れる訳じゃない」 家族という言葉に、複雑な表情を見せた。 おれたちは家族だ。それは一生変わらない。 だからこそ傍に居られるという確証がある。 「ただ。こどもから卒業しなければ先に進めない。十五年だ。十五年経ったらおれはここに戻ってくる」 「そんなに経ったら……おじさんになっちゃうよ!」 想像も及ばない未来。 あまりに遠すぎて、現実味がない。自分が生きてきた人生と、同じだけの時間をやり直さなければならないのだから、それは仕方がない。 おれは、椅子から立ち上がった。 「そのとき、おまえは柊司さんと変わらない年だ。彼はやっと愛する人と出会えた。決して遅くはない」 陸の前に立って、おれを上目遣いで見上げるその顔を見つめた。 可愛い。 可愛い陸。 本当は離したくない。 離れたいわけがない。 このままおまえをさらって、誰も知らない何処かへ行きたい。 「どんな人生を歩んでいてもいい。それまでおれを愛していてくれたなら……まだ、独りだったなら。その時は陸、一緒に暮らそう。おれは変わらずにおまえを愛している」 陸の顔が歪んだ。 「おれを……捨てるの?海斗」 我慢しきれなくなった泣き顔が、あふれる涙に濡れてゆく。涙を振り払うかのように首を振って、おれの言う事を受け付けない。 それは仕方がない。 おれはずっと、受験さえ終わればまた一緒になれると信じて待っていた陸を欺いてきた。医大の合格を知って、一番喜んでいたのが陸だったと柊司さんから聞いた。本当は、二月にはもう進路は決まっていたんだ。 嘘で固めたおれ自身が。……胸が押しつぶされそうで、それでも覚悟を決めなくてはならなくて。 だから辛かった。 別れたいわけじゃない。 出来るなら、おれだけを愛していて欲しい。 離れ離れになると知っていながら、おれはおまえを束縛したい。そんな勝手な事を考えていた。 けれど、結局おれは陸を独りで置き去りにしてしまう。 「傍にいて、おまえを守る事が出来なくなる。それは……そういう事なんだろうな」 否定はできない。 どんなに綺麗ごとを並べようとそれが事実だから。 「やだよ、海斗。……行っちゃやだ!」 可愛い顔をくしゃくしゃにして、涙で制服まで濡らす陸。 どうにも出来なくて。愛しいのに、傷つけてしまう。 悔しくて、辛いのはおれも同じだけれど。一方的に言われた方はやりきれない。 それが分かるから、また、嘘を重ねてしまいそうになる。 おれは陸を抱き寄せた。 抱き返す腕がおれを離さない。 ありったけの力を込めて、おれの胸に顔を埋めて。陸は声を上げて泣き出した。 それはまるで、大切な何かを失った慟哭のようで。 おれはそんな辛い仕打ちを愛する者に残してしまうんだな……と、今までの自分の在り方を後悔した。 おれが兄弟の領分を守っていたなら、こんな辛い思いをさせる事もなかった。 今更悔やんでももう遅い。 それに。 悔やんだとしても改心しようとは思わないから。 「約束しよう、陸。十五年後の今日、また会おう。……そのときは卒業式だったらいいな……そしたら卒業から」 言って、その日を想って、思わず口元が緩んだ。 それは久しぶりの微笑み。 「……始めよう」 陸は、おれの頭を抱き寄せて、強引なキスを寄越した。 目眩がするほど、淫らな欲をはらんだキスだった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |