獣道はいりました
手探りなふたり4
夢中で自転車のペダルを漕いでいるうちに、おれは思ったよりも早く諏訪の家に到着していた。
ペダルを踏みながら、アイツと出逢ってから今までにあった色んな出来事を思い出して。切なくて、余計に早く逢いたくなって……。
気付くとおれは、閑静な住宅街の角地にある大きな家の近くまで来て、それが諏訪の家だと直感した。
幼い頃からピアノを弾いていた諏訪に、そのピアノを教えたのは諏訪のお母さんだと聞いた。
五人家族の、ピアノのある家。
角をぐるりと庭が囲んで。
そこはセンス良く整えられ、簡素に飾られたナチュラルガーデンで。
庭の中央へのベンチに向かう敷石の入り口には、バラのアーチが最後の花を咲かせていた。
こんな家で育つと、あんな天然物が出来上がるのか……
と、おれは疑いようもなく納得させられた。
……………というか、ここが諏訪の家でいいんだよな?
おれは改めて考えた。
なぜなら、その玄関先には車が停まっていて、その前で、若い男女が何やら困ったように話し込んでいたからだ。
おれは、自転車を庭の横に停めてから、玄関先の彼らに近寄って、訝しげにおれを見る女の人に尋ねてみた。
「あの……諏訪さんですか?」
「そうだけど……」
おれはここが間違いなく諏訪の家だということを知って、彼女に更に尋ねた。
「ぼくは御堂といいます。諏訪くんの具合さえよければお会いしたいのですが」
おれの用件を知った彼女は、とたんに表情を変えて嬉しそうにおれを見た。
「──あなたが御堂くん?」
驚きと感激を秘めた視線がおれに注がれる。
まさかこんなに歓迎してもらえるとは思わなかった。
諏訪はおれの事を、家族にどう話しているんだろう。
「よかった。上がって。…………ちょっと待っててね」
彼女は彼に言い残して、おれを家の中に案内した。
「遠慮しないで上がってね。ちょうど良よかった」
ちょうどいい……って
何が?
おれは疑問を抱えたまま彼女に案内されて、リビングに通された。
中は広いという事を除けば、意外と普通の家庭だった。
「実は両親が旅行中で、わたしも本当は彼と約束があったんだけど、朱鷺雄が熱を出したから諦めてたの……」
彼女は『ツグミ姉さん』だろう。
想像通り、諏訪に似て美人だ。
「ねえ御堂くん」
姉さんはにっこりと笑って、おれの傍に寄ってきた。
「キミ……今夜はヒマ?」
ちょっとマテ!
これは、なんのお誘いだ?
おれは予想外の展開に茫然としてしまった。
ツグミ姉さんは悩ましい表情でおれに迫ってくる。
「ああ……。今夜だけじゃなくて、連休中ずっといて欲しいんだけど」
諏訪にそっくりな顔で。
そんな縋るような表情と絡み付くような甘い声で迫られてはたまらない。
いったい何だって言うんだよ
「わたし、彼との約束を反故にしたくないのよ」
はい?
「わたしの代わりに、朱鷺雄の面倒を見てくれないかしら」
姉さんの提案を聞かされて、おれは動揺した。
そんな事をおれにさせて、本当にいいのか?
「もうほとんど熱は下がっているし、病院から薬ももらっているから、あとは食べさせるだけでいいの。あ……ちょっと座って待ってて」
姉さんはおれにソファーを勧めて座らせてから、リビングから出ていってしまった。
おれは言い付け通り待っていたが、五分経っても姉さんはまだ戻って来ない。
そのうちに、二階から諏訪の声が聞こえてきた。
何だか揉めてるようで、そんな諏訪の声を聞くのは初めてで落ち着かない。
おれは気になって、ソファーから立ち上がると、パタパタと階段を降りてくる軽い足音がして、姉さんがリビングに戻ってきた。
驚いた事に、姉さんはすっかり着替えていて、どう見ても小旅行仕様のキャスター付きの旅行カバンを引きずっている。
「御堂くん。あなただから頼めるの。これ、当座の軍資金ね。美味しいものでも食べて」
姉さんはおれの手を取って、たった3連休中の食費にしては高すぎる高額な紙幣を二枚も握らせてきた。
あなただから……って
ホントにあいつはおれの事をなんて話しているんだろう
そして姉さんは、おれの目を見て、真剣な表情で念を押した。
「くれぐれもよろしくね。あいつが親に余計な事を言わないように。……頼んだわよ。わたしが帰ってくるまでここにいてちょうだい」
この金には、口止め料も含まれていたようだ。
おれは理解して手のなかの紙幣を見つめた。
二階から姉さんをひき止める声が聞こえて、見ると諏訪が降りて来ていた。
姉さんは急いで玄関に出て行く。
「姉ちゃん、待てよ!」
「──お姉さん?」
ひき止めるおれたちを残して、姉さんはドアを開けてからおれを振り返った。
「留守番頼んだわよ」
おれたちの事情など全く知らない彼女は、無心に恋人のもとへと走って行く。
ドアがゆっくり戻ってから、カチャリと音を立てて閉じた。
鬼の居ぬ間の外泊。
恋するもののパワーは偉大だ。
そういう気持ちが分からないでもないおれは、彼女のお願いを聞いてあげようと思っていた。
だが、諏訪は迷っている。
突然に降ってわいたこの展開には、おれですら戸惑う。
でも、こんなチャンスをみすみす逃す手はない。
「──御堂」
階段の途中に立ち止まって、おれを見下ろすパジャマ姿の諏訪は、困ったままだった。
やがて、玄関前の車のエンジンが始動して、走り去って行く音が聞こえて。
おれたちはふたりきりで広い家に残された事を知った。
「どうして……」
階段に立ち尽くしたまま戸惑う諏訪。
おれは意を決して諏訪に向かった。
「おまえが突然休んだりするから」
おれは階段を昇って、抵抗する気力もない諏訪を抱きしめた。
「──心配した」
階段の段差がおれたちの身長を逆転させる。
おれが諏訪の胸に縋ると、諏訪の腕がおれを抱き返してきた。
「もう大丈夫だよ。熱は朝から出てないし、ちゃんと食べられるようになったから、ひとりでもよかったんだ」
そう言う諏訪の胸は、まだ少しだけ微熱を含んでいる。
おれは諏訪を見上げた。
「おれがいると迷惑か?」
「そうじゃないよ。御堂こそ、迷惑だろ?」
諏訪は慌てて、おれの言葉を打ち消してきた。
「いきなりだったから驚いたけど。……でも、おまえとふたりきりでいられるなんて、嬉しいだろ?」
こんなチャンスをくれたお姉さんには感謝してる。
おれの下心を知って、諏訪は微熱のせいでほんのりと赤くなっていた目許を、さらに潤ませておれを見つめてきた。
「──うん」
照れくさそうに同意する諏訪は、犯罪級に可愛い。
おれの横を通って、諏訪はそのまま階段を降りてリビングに向かった。
黙って見送るおれを振り向いて、諏訪は視線だけでおれを誘う。
いつもの目だ。
その視線に初めて気付いたのは、二年になってすぐ。
グランドでトラックに立つおれを見つめる視線。
どんなに離れていても、その視線は熱くおれを誘惑して。
おれはいつのまにか、諏訪に惹かれていた。
諏訪にはそんな自覚はないみたいだけど……。
おれは階段を降りて、諏訪の背中を追った。
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