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破片の恋
龍太くん
 体育の授業中に、突然救急車の音がした。
 今月は持久走―――延々と学校の周辺をぞろぞろ走らされるだけという、年間を通して最も不人気のカリキュラムである。

 龍太は何事かと思って生徒達が集まっている方に向かった。
 どうやら誰かが倒れたらしい。
 え、誰?と近くにいた女子に聞くと、「司城さん。今日は途中からずっと具合悪そうだったのに、先生が休ませてくれなかったんだよ。」という回答が返ってきた。
 「へぇ、そうなんだ。大丈夫かな…。」

 龍太の知る「司城さん」は、いつも遠くで女子と笑っている姿か、後ろ姿くらいしか思い浮かばない。
 病弱そうにも見えないが、けっして元気溌剌といったタイプでもなかった。
 17歳にしてはつるりとした白い肌で、血色は良くない。
 げらげら笑うところなど見たことはない。
 どちらかといえば、座って落ち着いておしゃべりする方がイメージに合う。
 学年トップクラスの4名の一角を担っており、文系の秀才。そのくせ数学が得意で、よく数学科の職員室で見かける。
 大人相手なら声をたてて笑うようだし、時に教師達を爆笑させるほどのユーモアも発揮するらしい。
 男子生徒の中には、大人っぽい彼女に憧れている者も何人かいると聞く。
 ちなみに龍太は生徒会長だが、「司城さん」にはあまり良い印象を持っていない。というのは、彼女は品行方正を買われて風紀委員になったくせに、ろくに仕事をしていないからだ。性質の悪い生徒に出くわしても、やんわり世間話をするだけで、笑顔で別れてしまう。風紀委員のくせに、いわゆる不良からも特段煙たがられていない。そのうえ、学校行事には非協力的とは言わないまでも、どこまでも受け身だった。

 学校内で起きる出来事など、子どもの遊びとでも思っているのではないか?
 周りの全てに対して、他人事であるかのように微笑むだけ。
 「司城さん」に反感を持つ生徒は、彼女のそういう所を特に鼻もちならないと言う。

 体育の授業中のハプニングは、間もなく学年中の噂になった。当の本人がまる1週間も休んだのだから、あらぬ噂も立とうというものだ。
 だが、1週間もすれば生徒たちも「司城さん」ネタに飽きてしまっていた。

 龍太は、その日始業ギリギリで登校し、急いで靴を履き替えているところだった。
 前日のバレー部の練習がハードすぎてつい寝坊してしまったのだ。
 チャイムが鳴り始めた。
 (あ、ダメだ。絶対に間に合わねー。)
 そう悟って、スニーカーを靴入れに丁寧にしまう。

 その時、ふわりと花の香りがして、振り返ったら「司城さん」がいた。

 「おはよう。」

 なぜか赤面した龍太である。
 「どうも」と返しながら、ちょっと見ない間にずいぶん痩せたな、と思った。
 こんなに時間に登校したのは、きっと病み上がりだからなのだろう。

 「あのさ、大丈夫?」
 「え?…あ、うん。もう大丈夫。ありがとう。」

 「司城さん」の笑顔は独特である。
 にかっと勢いよく笑うのではなく、ゆっくり少しずつ広がっていくのだ。
 そのせいか、生徒同士の慌ただしい会話では、笑いきらないうちに別の話題に表情がさらわれてしまうことも多い。

 ―――と、思ったら、龍太はもう「司城さん」のことが好きになっていた。
 頭を抱えたくなった。
 教室までの移動中、ろくに話もできないままだった。
 彼女が大人過ぎるのがいけなかった。「司城さん」の横にいると自分がものすごく子どもじみた存在に思えてくる。
 一部の男子どもから、「あれは絶対に処女ではない」と噂されるのも頷ける。
 龍太にはそれさえも魅力のように思えた。
 経験豊富な女の子の方が良いじゃないか。色々教えてもらえて…。


 ◆  ◆  ◆  ◆


 「司城さん」がこの1週間のあいだどうしていたか、彼は知らない。
 司城家はちょっとした騒ぎになっていた。
 彼女の母・絢子が、悠を病院から連れ帰って以来学校に行かせようとせず、何度も検査のために大学病院に駆け込んでいた。

 「マラソンごときで倒れるなんて、絶対にどこか悪いはずでしょう!」
 「何もないなんて、あんた達はヤブ医者だわ!」
 「納得できる診断を何もしないくせに、お金だけは取るのね!」
 「この病院を訴えてやるわ!」

 …というようなゴタゴタがあったのである。

 悠が多少なりとも分別がなかったら、もっと大事に発展していたかもしれない。
 結局、瞬間湯沸かし器のように激昂する母親に恐れをなした病院側が、無理に「貧血症」との診断書を出すことになった。
 「お母様、これなら安心でしょう?」と悠は母親に聞いた。
 絢子はまだ不満げだったが、とりあえず安心したようだ。


 「あの人は、ちょっと変だと思うな。」
 久々に登校する朝、忙しく動き回る妹に向かって、大樹がコーヒーとカップラーメン、菓子、保温ポット一式を盆に乗せながら言った。
 兄・大樹は大学生になったばかりだ。
 その昔東堂先生にみっちり仕込まれたせいか、理系科目が得意で数学科に進学している。今日は講義もないから、部屋に籠ってゲームでもして過ごすつもりらしい。

 「ならお兄ちゃんがお母様に言ってよー。『変だ』って。」
 「そのうちな。」
 「ふーん。」

 兄妹は、あまり会話が成立しない。
 兄は牛のように寡黙で、妹は地味な兄とは趣味が合わない。
 常識人である兄は「ちょっと変」な母とコミュニケーションをとろうとせず、一貫して冷たい態度を崩さない。
 すると母は息子に拒まれた愛情まで娘に注ごうとする。
 絢子は今日もベッドに戻ったようだ。
 悠は鞄の中の診断書を確認し、さっさと家を出た。
 家の中の空気が淀んでいる。
 母がカーテンを開けず、家の中を暗くしたままにしているせいだった。

 (昔はそれでも、ガーデニングとか、色々やってたのに…。)

 母のことは心配だ。
 だが心配以上に、今はわずらわしい。
 兄も、少しは母を大切にしてくれればいいのに。
 そうすれば、母だって少しは娘離れしてくれるだろうに…。

 悠は高校生だ。これから受験もあるし、どんどん忙しくなる。
 そして大学に行ったら、可能性はもっともっと広がっていくにちがいない。

 (東堂先生、お父様。私、東大に行くって決めてるの。)
 (それで、広い世界を見るの―――)

 彼女はよく、眠る前にそんなことを思っていた。
 隣で眠る母には分からないように、布団を頭からかぶり、胸の前で手を組む。
 神様に祈っているのではない。
 心の中の恩師と父と、自分自身に誓うのだ。
 この家から、遠くへ、遠くへ。
 新しい人に出会い、新しいことを学び、いつまでも若い心のままでいたい。
 母のような、老いさらばえて萎んだ心になってしまいたくない。
 自分の力を試したい。
 母のことは、私が母を養えるほど十分に実力をつけてから呼び寄せてあげればいい。

 自分の毎日から、意識的に努力しなければ、明るさや若さが消えてしまいそうだった。
 悠が「龍太君」と改めて知り合ったのは、そんな頃のことである。


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