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破片の恋
別れの言葉(3)
 ドアが閉まると、途端に涙がどっと溢れでた。滂沱とはよく言ったものだ。
 少し大股で歩く彼の足音はよどみなく去っていく。
 何という平静な足どりだろう。
 渡辺はきっとまっすぐ駅に向かい、電車に乗るなり親友の大村にでも報告のメールを送るのだろう。
 「今別れてきた。時間あるならこれから飲まない?」とか何とか…。
 それを想像すると悠は悔しくてならない。
 当の本人には何も説明しなかったくせに、他人にならいくらでも「語る」のだ。シングルになった今の抱負や、私との思い出や、その他色々なことを。

 ぐすぐすと息を乱しながら、必死の思いでキッチンに立つ。
 失恋を嘆くのは洗い物を終わらせてからにしよう。
 でないと、きっと明日になってもキッチンが片付かないままだ。


 ◆  ◆  ◆  ◆


 午後7時、今日の渡辺はいつもより早くやってきた。
 部屋に来るなりベッドにもつれ込んで、いつもより幾分激しく身体を交えた。

 彼は毎週金曜日の夜遅くに悠のアパートに来ると、夕食を食べ、TVを見ながらアルコール類を少々飲み、日付が変わる頃に風呂上がりの悠をベッドに引っ張りこむのが常だった。
 たいていは翌朝、遅い朝食を食べてすぐに帰るのだが、昼過ぎまでデートすることも、たまにはあった。
 付き合い始めて8カ月を少し過ぎた。
 二人の時は中身のない会話がほとんどで、恋人同士というよりは、巷でよく言うセフレのようだといつも思っていた。
 渡辺はどこに行っても悠を女性として丁重に扱ってくれたが、悠に言わせれば、二人の関係はいつも自分ばかりが片思いをしているようだった。
 それを渡辺に気付かれてはならない、と彼女は努めて冷静な彼女のふりをしていた。
 縛らずに見守っていれば、いつか自分を本気で思ってくれるようになるのではないか…と、淡い希望にすがっていたのだ。
 彼女は元来冷静なタイプだったので、演技も堂に入ったものであった。

 好きと言わない。
 我儘を言わない。
 デート中に振り回さない。
 相手の都合を尊重し、決して拘束しない。
 私は私で忙しく楽しんでいる、というポーズ。渡辺と付き合い始めてから、恋人とは無関係の外出や用事が増えた。

 「女の子と付き合って、こんなに楽だったことはない」と渡辺は幾度となく言った。
 渡辺がそう友人達に自慢していたということも聞き知っている。
 自慢するからにはそこを評価してくれていると思っていたのに、実は不満だったのだろうか。

 それとも、彼は初めから身体目当てだったのだろうか。悠の身体に未開の地がなくなった以上、面白みがなくなってしまったということなのだろうか。そしてまた新たな未開の地を探しに旅立っていったのだろうか。
 悠から告白して付き合うことになった夜、渡辺は悠を車から出そうとせず、かなり強引に彼女を抱こうとした。しかしその時はさすがに悠も必死に拒んだものだ。
 悲鳴まじりに抵抗する彼女を軽々と抑え込みつつ、渡辺は愉快そうに笑い、呟いた。
 「当分楽しめそう」と。
 今にして思えば、渡辺のこの言葉は意味深だ。
 まるで処女を喰うのが趣味の好色漢のようではないか。
 しかしその時の悠には、渡辺のそんな余裕の様子が、さらに眩しいものとして感じられたのだった。
 抱きしめられ、髪を撫でられ、そのまま衣服を乱すことなく朝まで車で過ごした。
 結局悠は、2度目のデートで渡辺に処女を捧げた。
 

  ◆  ◆  ◆  ◆


 私の何がいけなかったのだろう?
 疑問が頭の中から溢れだして、部屋中にまで充満しているようだ。
 だが、悠には分かっていた。
 実は、付き合い始めた時から分かっていたことだった。
 彼に自分で言ったことが全てだ。
 渡辺が理屈ではなく感覚的に「この女ではない」と思うなら、それが彼にとって絶対の、誤魔化しようのない真実なのだ。悠がこの先何をどう変えようと、渡辺のその真実は不動でありつづけるだろう。

 食器は片付いた。
 濡れた手で頬を拭い、周りに飛んだ水滴をふき取る。
 そしてベッドの上の猫を乱暴に抱き上げソファに置くと、しわしわのベットシーツと枕カバーを引き剥がしにかかった。

 汚らわしいシーツ。汚い男。
 (別れ話の前に、捨てる予定の女を抱くなんて―――)

 取れるものは全て取ってから捨てるとは、さすが商売人の家の息子だ、と心の中で皮肉る。
 皮肉った後で、渡辺に対して少し申し訳ない気持ちが湧きおこった。
 渡辺の実家は零細な製麺所を経営しており、いつだったか彼がその秘密を打ち明けてくれたのだった。
 大学院生のほとんどは良家育ちである。
 仲間内で彼が実家の経営難を引け目に感じているようだったので、悠はお互いの家族の話を絶対にしないようにしていた。
 誰にだって触れられたくないことはあるものだ。
 いつも男らしくて尊大な渡辺がほんのわずか見せた弱気を、…二人だけの秘密を、悠はことのほか愛しいと思っていた。
 彼が1年かけて必死で英語を勉強し、外資系の大手金融から内定を貰った時、「俺、そのうち高額納税者になっちゃうかも」と言ってニヤリとした時も、悠は貪欲そうなその顔をいじらしく思った。

 「……渡辺さんの馬鹿!」
 渡辺に対する色々な思いがどっと押し寄せてくる。

 悠はシーツや布団を床に投げ捨てた。
 警戒する猫をもう一度抱き上げ、ふわふわの毛に顔をうずめる。
 「クロ、聞いて!渡辺さんがひどいの!」
 同じ男でも、クロの方が渡辺よりずっとずっと自分に優しい。
 今ももがくのをやめて、悠にされるがままになっていた。
 女をもみくちゃにして、ポイと捨てるようなことをクロは絶対にしない。去勢済みだから当然なのだが…。

 「ひどいひどいひどい!…ひどいよ!」
 「『もう少しちゃんとした方が良い』って、何よ。」
 「ちゃんとしてるわよ私は。」
 「ちゃんとしすぎてたから駄目だったんじゃないの?」

 そう思えたら、少しは溜飲が下がったことだろう。
 格上の女と付き合ったせいで、小心な男の側が勝手に窮屈になったのだ―――と思うことができる。
 それなのに、もっとちゃんとしろとは。
 しかも「色んなことを」ときた。
 悠はそんな暴言を残していった元恋人の顔を思い浮かべてみた。少しくらいは卑屈な表情をしていただろうか。自分から目をそらしてはいなかったか―――

 ……いや。
 渡辺の表情も声も、ちゃんと誠実だった。

 悠はソファに座り、悲しげに「ウー」と啼いたクロを解放してやった。
 渡辺は嘘をついたり、感情的に悪態を吐いたりするような人間ではない。だからきっと、あの言葉は彼なりの率直な感想なのだろう。たとえそれが悠にとって心外なものであったとしても。

 悠は彼の言葉の意味するところを考え始めた。
 失恋についてめそめそ嘆くよりも、その方がずっと健全な思考のように思われた。
 人文・社会科学分野の研究者の卵として、悠にはそれなりの信条がある。

 敗北や喪失を予防できる人は天才だ。
 喪失から学べない人間は、凡才にも及ばぬ愚か者に堕すのだ。
 どんなに惨めな敗者になったとしても、愚か者にだけはなりたくない。


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