早く目的地に着いて!
早くバスから私を降ろして!
恥かしさで一杯の私は心から祈って目を瞑った。
そんな私の願いが通じたのか、次に停車した時、アニスは私の手を引いてバスから降り立った。
「どうしたの、そんな赤い顔して」
「だ、だ、誰のせいだと……」
いい年してこんな恥ずかしい思いをしたのは初めての事。
なのにあっけらかんとしたアニスは、先ほどの出来事を髪の毛一つも何とも思っていない様子。
「早く行こう、こんな暑い場所にいたら具合が悪くなっちゃうよ」
確かに今は夏で暑いけど、でもまだ朝の八時を過ぎたばかり。
風も吹いていて爽やかな朝だと思うのに、随分軟弱な男の子。
本当、今の若い男の子は弱くて全然駄目。
そのせいで私が現実逃避すればするほど、癒しのぬいぐるみ達は増えていったんだよなぁ…。
頭の中で紆余曲折しながら考え事をし、私の手を引く緑の髪の主、アニスを憎らしげに睨んでいれば。
「そんなに見つめないでよ、僕の身体に穴があいちゃう」
私にずっと背を向けているのに、どうしてわかるんだろう。
殺気でも放っていたんだろうか、しかしそれを察知してしまうアニスは……。
……そうだ、アニスはきっと人間じゃない。
人間じゃないからこそ、あんな普通じゃない事をやっているんだ。
「アニス、一つ聞いても良い?」
「……良いよ、なぁに?」
「アニスは……人間?」
「人間じゃないよ」
「……そう」
もったいぶるとか、間を空けるとか、そんな余韻は一切なく。
普通に、さも当然とばかりにサラリと言われ、私はただ黙って頷くしか出来なかった。
「そんな事良いからさ、ほら着いたよ。香夜ちゃんの新しい家」
「私の新しい家って……、私はアパートに帰る」
「駄目だよ」
それまで背を向けていたアニスが私に振り返り、言葉を遮った。
「香夜ちゃんは僕の世話をするために一緒の家に住むんだよ。王子である僕にずっと傅いていなくちゃ駄目なんだよ」
首を横に傾けながら「ね?」と、私に確認するアニス。
頷く事も首を横に振る事も出来ずに、まして言葉でも反応を見せる事が出来なかった。
どうして私がアニスの世話を焼かなければならないのか。それに傅きたくもない。
当然納得出来るような言葉はアニスから語られる事がなかった。
「まぁ良いや。ほらここだよ、入って」
無言のまま困惑する私を半ば引きずりながら一軒の家の門へと導いた。
辺りを見渡せばいたって普通の住宅街。
ましてこれから入ろうとする家は想像していたお城とはかけ離れた、普通の一軒屋。
少しばかりお洒落な感じではあるけど、周りの風景に溶け込んだ違和感のない普通の家。
「どうぞー」
鍵を開けドアを大きく開ければ、中に促される。
家の中も特に変わった所はない。
とてもシンプルで、華美な装飾品が一つもない。
これが本当に王子が住む家?と疑問を抱かせるほど普通。
「何呆けてんのー?香夜ちゃん、こっちこっち」
家に入ると漸く離された手。
少し前にいるアニスが階段を前に手招きしている。
「香夜ちゃんの部屋、案内するよ」
アニスの足取り軽く、浮かれている様子がよくわかる。
何がそんなに楽しいのか……。
私はこれからの生活に希望を見出せないでいるって言うのに。
階段を上ると真っ直ぐ伸びた廊下を、大きな窓から入り込んだ陽の光によって明るく照らされている。
三つ並んだドアはどれも同じで、一番手前の部屋で立ち止まっているアニスが満面の笑みを浮かべてドアノブに手をかけた。
「ここが香夜ちゃんの部屋でーす」
開いた部屋に顔だけ入れて覗き見て絶句する。
「……な、……何ですか、この部屋」
「えー?あ、嫌だなー間違えちゃった」
アニスは「僕ってば、うっかり屋さん」と言いながらも、ドアを閉めようとしない。
その薄暗い部屋には所狭しと卑猥な形の物や、何に使うの考えたくない大きな注射器のような物。
……産婦人科で見るような診察台に、縄や蝋燭。奥には磔台のような物、天井にある滑車からぶら下がる鎖まである。
一瞬にして私の顔は青褪める。そんな私を見て、アニスは満足そうに笑っていた。