「いやーっ!」 発狂寸前とばかりに手足が震え、あまつさえ喉まで痙攣したように震えて息が苦しい。 恐怖感が頭の中に広がり、その場に座り込んでしまいそうになる。 瞬間、窓のカーテンが視界に入り、一筋の光明を感じた。 ドアが駄目、ならばベランダへ――。 間一髪蛇を躱し、思うように力の入らない足を引きずるように逃げる。 部屋はそれほど広くもないのに、もつれ震える足では異様な距離感を感じた。 どうにか壁際まで行き、窓を覆うカーテンに手を伸ばしてそれを思い切り引いた。 「う……そ」 舞うカーテンは窓を覆っていたのではなく、ただの壁を覆っていただけ。 今までは窓だったはずなのに、どうして突然壁になっているの!? 呆然として、その場に座り込む。完全に力が抜けた。 涙腺も崩壊してしまったのか、涙が溢れ出ていて視界が悪い。 指示の中々入らない自分の身体では、涙を拭う事も上手く出来ないで不器用に何度も擦る。 痛みを伴うような拭い方だけど、はっきりとした現実を見たくない今はそれで十分。 滲む目で恐る恐る振り返れば、私から1メートルほど離れた所で鎌首をもたげた蛇達と目が合う。 「やだ……、来ないで……」 怖いよ、怖いよ。 窓だったはずの壁を背中に、これ以上行けないのに逃げたくてたまらなかった。 私を威嚇するような妙な呼気が蛇から聞こえる。 一定の距離を保ち、私を取り囲むようにする蛇は重なり絡まり合いながら私を見ている。 何度も擦ってしまった瞼が涙で沁みて痛む。けど涙は恐怖から次々と出てきて、止まる事をしらない。 この場を切り抜ける方法なんて知らなくて、嗚咽混じりにただ泣いていた。 「こっちだよ、香夜ちゃん」 壁になってしまったベランダ側から不意に現れたアニスは華麗に身体を揺らして着地し、私に手を伸ばした。 私を取り囲む蛇達はアニスが来た事で、私との距離を広げた。威嚇の音はまだまだ止めてはいないけど、蛇との距離が開いた事で少しだけ息苦しさは楽になった気がした。 「アニスッ」 思ってもみないアニスの登場に緊張の糸が切れてしまった。壊れた涙腺は目の前の救世主を霞ませる。 助けて欲しくて、悲鳴に似た声を出しながら私は精一杯両手を伸ばしてアニスの手を掴んだ。 「どうして僕をすぐに呼ばなかったの?」 「だ……て、パニックに……なって……」 「もう、仕方ないなあ」 腰の抜けた身体を抱き上げるとアニスは包み込むように抱きしめながら、よしよしと頭を撫でた。 助かったと安堵すると同時に、言いようのない安心感でいっぱいになりながらアニスの背中に腕を回した。 「契約成立だね、香夜ちゃん」 「え」 「香夜ちゃんを助けてあげられるのも、守ってあげれるのも、この僕だよ」 何を言っているのか頭がついてゆかず、煩い心臓の音が私の集中力を削ぐ。 アニスの胸に埋めかけた顔をゆっくりと離して後ろを向けば、黒い蛇は私達の様子を窺っていて赤い舌を覗かせていた。 「た、助けてっ」 「うん、良いよ。僕に全てを委ねて、僕に縋ってね。ちゃんと助けてあげるから」 助けると言ったわりにその場から動こうとしないアニス。 生きるか死ぬかの瀬戸際って言ってもいいくらい、私の危機的状況なのに……。見上げてみればアニスは楽しそうに笑っている。その表情に若干の苛立ちを覚えた私は大きな声を上げた。 「ここから脱出させてっ」 「僕、プロポーズの返事を聞いてないんだけどなー」 「今!?ここで!?」 「うん、今、ここで」 拗ねたように言うアニス。対する私は焦りの色を前面に押し出し、アニスの腕の中で落ち着きをなくしていた。 プロポーズの返事をここで悠長に言える場合ではない。 けれど嫌だと言えない状況。 「ほら、香夜ちゃん、僕の手を取ったでしょ?それで契約は成立したけど、香夜ちゃんからの気持ちのこもった言葉が欲しいな、僕」 じりじりと間合いを詰める蛇の集団。 一匹の蛇と目が合うと、それは薄らと口を開けて小さく尖った牙を見せた。 気持ち悪さと怖さのゲージが最高潮に達し、私は引き攣る喉で叫んだ。 「助け……っ、アニスの、言う通りに……」 「僕と結婚する?」 私は頭を縦にぶんぶんと振る。振っては後ろに迫る蛇に視線を向け、再び大きく頭を縦に振った。 「言葉でも聞かせて?」 「結婚……、する」 「誰と結婚するの?ちゃんとした言葉にしてくれないと、僕わからないよ」 これ以上引き伸ばされたくない。 怖くて怖くて、言葉も満足に出せないのに。そんな私を知ってるくせにアニスの意地悪! 「アニスと、結婚するっ」 「その言葉、忘れないでね」 無理に声を出したせいか、喉が苦しい。 でもアニスは私の言葉に満足そうに微笑んで、縋る私の頬に唇を寄せた。 「契約ハ受理サレタシ」 突然誰の声かわからない、所々掠れた耳障りなノイズが走ったような声が低く響く。それと同時にドアも開かない完全なる密室で突風のように風が舞い上がり、私の髪が揺れ落ちる。 次から次に起こる不可解な出来事に涙目になりながら声のした後方に意識がいく。けれど怖くて見る事が出来ず、ただアニスを見上げた。 「僕の友達が承認してくれたよ。良かったね、香夜ちゃん」 「とも、だち……?」 「僕が招いたんだ。これで晴れて僕達は夫婦だね」 「え、あのっ」 「グノーシス、ありがとう。もう良いよ」 怖がる私を物ともせず、私の後ろの方を見ながらアニスはお礼を言っている。 恐る恐る後ろに振り返れば、大量にいた蛇は一匹だけになっていて威嚇するようなあの呼気が静かなものになっていた。 一瞬だけ目が合ったかと思うと、蛇は床に吸い込まれるように消えてしまった。 「もしかして、蛇……、喋っていました?」 「うん。承認してもらったからね」 「蛇と、友達……なんですか?」 「蛇は仮の姿だよ。本当の姿は違うんだ」 一気に脱力する身体を、アニスが支える。 私には抱かれる事に対して抵抗する気力なんて欠片も残ってなくて、アニスの言葉をぼんやりと気の抜けた脳で受け止めていた。 「今日が新婚初夜だね。……楽しみ」 ほくそ笑むアニスが私を興味深そうに見つめながら呟く。 そんな独り言聞きたくなかったけど、私には動く事なんかできずにアニスに抱き締められるままこれからどうしたら良いのか考えた。 |