誰かが私の頭を撫でている。 大きな手が優しくゆっくりと動いている。 「香夜ちゃん」 名前を呼ぶ声が聞こえ重い瞼を微かに瞬かせれば、心配そうに私を覗くアニスがいた。 「目、覚めた?」 うん、って声を出したいけれど、今は安定した呼吸を保つ事で精一杯。 返事の変わりに、ゆっくりと瞬きを一つする。 「二日間も寝てたんだよ。身体、大丈夫?」 たっぷりと眠ったとは思ったけど、二日間も寝てたんだ……。 今まで生きていて、そんなに寝ていた事などなかった私は内心驚いた。 「もう大丈夫だよ。安心して眠ってね」 頭を撫でる手が瞼を落とすように顔にかかる。 その声と手に、私は催眠術の暗示にかかったように再び深い微睡に落ちていった。 それからどのくらい経ったのか。 次に目覚めた時にはアニスがいなくて、見慣れた天井が薄暗い部屋でぼんやりと見えた。 今は夕方なのか、早朝なのか。 カーテンの隙間からオレンジ色の光が見える。 幾分かは軽く感じた身体をどうにか起こし、私はベッドから降りようとした。 しかし自分で思ったより身体に力が入らないみたいで、床に足が着くと膝が折れてしまい大きな音を立てて転がった。 「いっ……!」 膝頭から床に着いたせいで、膝がとても痛い。 転がった時に手も上手く着けなくて、ぶつけた腕や肩も……あちこち痛い。 頭はぼんやりとしながらも痛覚は敏感なようで、のろのろとした動きでベッドにもたれるようにしてどうにか座った。 私は一体どうしてしまったんだろう。 俯きながら、まだ覚醒しきれない頭をどうにか動かそうと、記憶をさかのぼる。 確かフェンネルさんに相談があるって言われて、家に招き入れて。 それからフェンネルさんがまた私を捕まえて、アニスの声が聞こえて。 意識が途切れる中、身を引き千切られるような痛みが私を襲った。 じわじわと思い出される記憶と痛みに、私は恐怖を感じた。 フェンネルさんに犯され、殺される所だったんだ。 脳裏を過る服を引き裂かれた時の皮膚の引き攣る痛みと、肌を滑る熱い唇と艶やかな髪。 僅かにしか出来なかった抵抗は、フェンネルさんの前では何の意味もなさなかった。 「うっ、うっ」 徐々に覚醒する頭についていけない身体がもどかしい。浅はかだった自分の行動を後悔するしかなくて、ただ泣く事しかできない。 また同じ事を繰り返している。 そう思うと情けなくて込み上がってくる嗚咽を両手で必死に食い止めようとしても、震える手では抑えきれるものではなく、伸ばしていた足を縮めて身体を丸くして、小さくなった。 「香夜ちゃん!?」 勢いよく開いたドアからはアニスがさっきと同じ表情で入って来た。 見慣れたアニスがいて、何かに縋りたかったんだと思う。 情緒不安定みたいになっていて、私はアニスに震える手を伸ばした。 「アニ、ス……」 溢れる涙は止める事が出来なくて。張りつめていた気持ちが、アニスに触れた事で一気に溶けだした。 「こわ、かった……」 「うん」 「ごめん、なさい……。私、また、フェンネルさ……に、ごめん……」 「うん、僕もごめん」 頭を振りながら、アニスにしがみつく。 嗚咽混じりに何度もごめんなさいと呟く私を、アニスは優しく抱きしめてくれた。 それはとても温かくて、私はアニスの胸で年甲斐もなく咽び泣いた。 「香夜ちゃんを守れなくて、ごめん」 「アニス、……悪くない。私が……」 アニスは私の頭を撫でながら呟く。 しおらしくするアニスに、私は首を横に振り続ける。 けどアニスは抱きしめる腕を更に強めて、私の動きを制した。 「香夜ちゃんが僕の大事な物だから、フェンネルに狙われたんだ。……ごめん」 私が大事……?でも私はアニスの奴隷で、玩具で。いつもおちょくられてばかりでしかないのに、……大事? 「僕、香夜ちゃんをずっと見てた。ずっと気になってて、気付いたら好きになってた。だから……」 え、え、え? 「あの、アニス」 「いいから、黙って聞いてて」 私が口を挟もうとすると、アニスは撫でていた私の頭を胸に強く押し当てた。 「初めて香夜ちゃんのアパートに行った時の事、覚えてる?」 それからアニスはゆっくりと、今までの事を話してくれた。 その間、私を抱きしめる腕は緩められる事はなくて。押しつけられた胸から聞こえる心音と、アニスの声を重ねながら瞼を閉じて聞いた。 真夜中の来訪。 それ以前から私を見ていたそうで。 アニスの会社の隣にあった、私の元職場。そこに通う私をずっと見ていたんだと言った。 よく隣に歩いていた速水くんと、とても楽しそうに見えていたとアニスは言う。 しかしいつも私は速水くんに怒られていて、とても楽しそうにしていたとは思えないんだけど。 急な出来事に頭が追い付かない私でも、疑問に思う事は多々あった。しかし、その疑問はすぐに私の肩を落とす結果となった。 「あんなに怒られているのに、香夜ちゃん、ちっとも負けてなかった。不屈の精神って言うのかな」 僕だったらどう香夜ちゃんを料理してあげようかなって考えてたらゾクゾクしちゃった、と続けるアニスの胸をやんわりと押す。 あれ?さっきまであった甘い空気はどこ? 「だから僕、香夜ちゃんをどうしても欲しくなっちゃったんだ」 抱き締められながらアニスを見上げてみれば、目を細めて微笑む顔が見下ろしていた。 そこには嫌味も嘘もない表情。しかし言われたセリフに違和感があるのはなぜだろう。 「香夜ちゃん、僕のお嫁さんになってくれるよね」 さっきの疑問が残るセリフがなければ、雰囲気に流されてうんと返事をしてしまっていたかもしれない。 けど、今は違う! 「や、です」 「僕のお嫁さんになってくれるよね?」 「いや、です」 「僕のお嫁さんになってくれるよね?」 拒否する私に、アニスは何度も同じセリフを言う。 普通ならお嫁さんになってくださいって言わない!?なってくれるよねって、お嫁さんになる事を望んでて、それを知った前提でのセリフじゃないですか!? 「じゃあ、実力行使しちゃっても良い?」 「え?」 「まだ身体が辛いだろうから、優しくしてあげようと思ってたのに。困った香夜ちゃんだね」 溜息をつきながらも、金色の目は妖しく光り、口元が微かに上がった。 「僕があんなに大事にしてたのに、呪いの人形のせいで香夜ちゃんの身体を夢の中でいいようにされちゃうし」 「あれは、アニスが」 お土産に持ってきたんじゃない!私に無理矢理キスさせて、呪いの効果を高めたのは誰よ!?あまつさえ変な呪いの鏡の相乗効果で私は大変だったんだからっ! そうアニスに噛みつこうとする口は、柔らかい物で塞がれた。 「孕んじゃえば良いんだよね。手っ取り早く」 何を孕むんでしょーか!? 啄むように、反論しようとする私に何度も口づけする。反論したくても、自分の呼吸を整える事だけで精一杯。 「ずっと我慢してたんだもん。ご褒美、ちょうだい?」 「アニス、ちょ」 ベッドにぐったりと凭れていた身体を、アニスは軽々と抱き上げベッドに乗せた。 強引なのに、どうしてか壊れ物でも扱うように優しくされる。 矛盾ともとれるような行動を取る、そんなアニスに戸惑いながらろくな抵抗も出来ず、反論もままならず。 私に跨って上から見下ろすアニスは、ゆっくりと顔を近づけてきた。 「香夜ちゃん、好き」 今までアニスの切なそうな顔なんて見た事がなくて、私を好きだと呟いた一瞬、それはとても脆くて綺麗な表情だった。 |