自宅に到着した頃になると、それまで細々とした息をしていた香夜ちゃんの呼吸音が少しだけ穏やかな音になっていた。
「ただいまー」
「アニス」
やっと落ち着く事が出来ると安堵の息を吐けば、少し気が楽になった。そんな僕とは対照的に少し慌てたようにユベールが玄関へと僕を迎えに来た。
「一体何があったんだ。……香夜は?」
「フェンネルがまた僕の物を壊そうとしたんだ。香夜ちゃん、いくら僕に慣らされつつあったとはいえ、魔界の瘴気にもろ当てられたんだ。……しかもフェンネルは香夜ちゃんを連れて転移までした」
腕の中の香夜ちゃんを見れば、一見穏やかに眠っている。
しかし今日起こった事は香夜ちゃんにとって、かなりの苦痛だったと思う。
「身体へのダメージを考えたら、暫く目覚めないかもしれないな」
「とりあえず香夜ちゃんを寝かせて来るから」
僕は階段を上り、香夜ちゃんの部屋に入った。
ベッドに下ろしてから巻いていたシーツをはぎ取ると、露になる香夜ちゃんの肌。
フェンネルが残した赤い痕に憎らしい気持ちが膨れ上がる。
寝ている香夜ちゃんに何かするってのは、面白くはないけど。ただこのままフェンネルの印を残したままでいるのは、僕としては気分が悪い。
フェンネルがもたらした痕跡を消すように辿っていけば、香夜ちゃんは鼻にかかったような声を漏らす。
フェンネルにされた時にもこんな声を出していたのかと思うと、無性に腹が立った。
けど不可抗力だったのだと自分に言い聞かせて、香夜ちゃんの半分布切れと化した服を脱がしてパジャマに着替えさせた。
漸く安堵出来ると、思わず疲れの息が吐き出される。
フェンネルの痕に被さるよように重ねた僕の痕。応急処置としてはこれで十分だろう。
悪かった顔色も少しずつだけど良くなってきている。
乾いた涙の痕を指先で触れた。
「怖かったね……、苦しかったね……」
香夜ちゃんをいつか魔界に連れて行っても良いようにと、僕と家に縛り付けておいた。 薄く瘴気を放ち、少しずつ慣れさせようとしていたのに。
そんな僕の計画を邪魔してくれたフェンネル……、本当にムカつく。
魔界の瘴気は人間には毒でしかない。それこそ普通の人間ならば、気が狂うだろう。そしてその先にあるのは死。
香夜ちゃんと契約した夜。
あの時、香夜ちゃんは生きる事を選んだから、僕は時間をかけて慣らしてきた。
もし死を選んだなら、僕の持つ紋章で焼き印を刻んで物にしようとした。
今となっては、生きる事を選んだ香夜ちゃんを褒めてあげたい。
おかげで命拾いしたのだから。
本当の奴隷になれば、いくら人間だとしても魔力はつく。フェンネルに僅かでも魔力での抵抗を見せたら、魔力封じの施されたあの地下牢で最初に殺されていただろう。
あんな赤い痕はつけられたけど、僕としては生きていてくれた事に、ホッとした。でもフェンネルのした事は許される行為じゃない。
やられたら何倍にもしてやり返すのが僕の流儀。
「フェンネルごときに潰される僕じゃない」
今までは面倒だからと放っておいた。
僕が人間界に根を下ろせたのも、フェンネルが魔界の次代を背負うから。
自由でいられるのは、跡継ぎがいるから。だからフェンネルを許してやっていた。そう、――許してやっていたんだ。
「やって良い事と悪い事の区別を教えてやらないと」
静かに眠る香夜ちゃんの唇にキスを落とし、僕は部屋を出た。
リビングに行けばロビンはソファーで丸くなって眠っていて、ユベールはそんなロビンを撫でていた。
「ロビン大丈夫でしょ?」
「問題ない。一眠りすれば、元通りになる」
僕はキッチンに行ってココアを二つ用意し、小さな籠に入ったマシュマロと一緒にリビングへ持って行った。
「はい、どーぞ」
「俺は甘い物が嫌いだ」
「せっかく僕が作ったんだから飲んで」
苦虫を噛み潰したようなあからさまな態度のユベールを前に、僕はマシュマロを三つカップに浮かべながらココアに口をつけた。
「ねえ、ユベール」
「何だ」
「馬鹿な兄を持つと、弟は苦労するね。そう思わない?」
僕の問いに何も答えようとしないユベール。
「今まで反撃らしい反撃した事なかったけど、さすがの僕も今回ばかりは仕返ししてくるね」
「……俺は行かないぞ」
「わかってるって。ユベールはここで留守番してて。何なら月胡ちゃんも呼べば?香夜ちゃんの面倒を見てもらいたいし。ただし早くね、時間が惜しいから」
少しだけ考えるそぶりを見せたユベールは一言そうだなと言って、出したココアに口を付ける事なく、すぐに家から出て行った。
その背中を見送り、僕はこれからどう仕返しをしてやろうかと、再びココアに口をつけた。
仕事中だった月胡ちゃんは不満一杯の顔でユベールに連れて来られた。
ユベールは月胡ちゃんにろくな説明をしていなかったようで、僕がかいつまんで説明をしていると見る見る内に顔色を青くさせていた。
「……ユベール。変態緑の兄ちゃんって、あの、この間話していた、あれ?」
「そうだ」
目が吊り上り、月胡ちゃんの青かった顔色は赤くなった。ユベールから何かしらの説明を聞いていたのだろう、怒りの気持ちが強くなったように感じた。
「自分の兄ちゃんくらい自分で抑えておけよ。どうしてカヤちゃんまで巻き込むんだよ!」
「それに関しては、ごめんね」
正直に謝る。本当に、謝るしか出来ない。もっと早く手を打っておけば、香夜ちゃんはあんな目に合わなかったんだから。
でも素直に謝ったのに、月胡ちゃんはきょとんとしていて、それから僕の顔をまじまじと見始めた。
「何?どうしたのー?」
「……いや、別に。ともかく、私カヤちゃんの様子見てくる」
「香夜ちゃんとロビンをよろしくね」
僕を見送る事なく、月胡ちゃんはすぐに二階に上がって行った。
「じゃあ頼んだよ、ユベール」
そして僕は、心置きなく魔界へと向かう事となった。