「転移は私達でも少なからず負担がかかりますから、生身の人間はもっと負担に感じるでしょうね」
聞き覚えのある声が聞こえて重い瞼を開ければ、私は冷たい石畳の上に寝ているんだと気付いた。
身体が重くて怠い。息苦しさもある。そして妙な金臭さが辺りに充満していて気分も悪い。
思うように動かせない身体で、私はゆっくりと視線を彷徨わせた。
石畳を歩く靴音が私の周りを動き、それがぼやける視界に入る。
「お目覚めですか?香夜さん」
見下ろすフェンネルさんは私を膝をついて覗き込むようにして声をかけた。
「フェ……ネル、さ……」
「アニスに慣らされているのに、まだこの空気は合いませんか?」
アニスに慣らされている?空気?
フェンネルさんの言ってる意味がわからない。
身体の自由もなく、思考力もなく。私は困惑の目でフェンネルさんを見返す。
「ふふ。まだ慣れてないようなら、こちらとしても好都合ですね。拘束する手間が省けます」
「や……」
フェンネルさんは私の髪を持ち上げ、私に不躾な視線を送った。
「さて、アニスは香夜さんのどこがお気に入りなのでしょうか」
「な、に……?」
引っ張られた髪の痛みを耐えるように、歯を食いしばる。
そして見下ろすフェンネルさんの高慢な目を見たくもなかったから、私は固く目を瞑った。私を人間としても扱ってない、まるでゴミでも見るような、あの目。
「髪?目?それとも唇ですか?」
ふふっと含んだ笑いで嘲るフェンネルさんは固く結んでいる私の唇に指を這わせた。
それがとても不快で、僅かに首を動かして撥ね除けた。
「ロビンもアニスに肩入れしていましてね。単に面白くなかった……とでも言いましょうか」
独り言のように呟いたフェンネルさんは、私の態度が気に入らなかったのか、再び強く髪を引き上げた。痛みで顔が引きつる。
「一番アニスがダメージを受けるやり方は何だろうかと、色々と試行錯誤しましたよ」
フェンネルさんはの声が近付く。気配は私の顔の前。
「手っ取り早く、ユベールは私だけの奴隷にした方が良いと思いまして。……しかし、奴隷の焼き印を刻んでる途中でアニスに邪魔されましたが」
ユベールさんがあの焼き印を受けた……?
あの背中を撫でる熱が蘇り、私の記憶を逆撫でする。
「ロビンは殺したはずでしたがしぶとく生きていましたね。だいぶ虫の息でしたのに。亡骸も確認するべきでした」
あのこにまで、そんな酷い事を……。
ユベールさんやロビンにどうしてそんな目に合わせなければならないのか。フェンネルさんの行動の理由がわからない。
アニスにダメージを与えるためだとしても、やり方があまりにも悪すぎる。
何の罪もないユベールさん達に危害を……、ましてロビンは殺されかけたのだから。
固く閉ざしていた目を開け、私を馬鹿にするように見下す目を睨んだ。
でもフェンネルさんは何でもなさそうにしたまま、口の端を釣り上げる。
何の力も持たない私に何を言われようが、何をしようが……。私は無力だ。
「香夜さんをどうしたらアニスにダメージを与えられるのでしょうか」
「な、い。ダメージ、なんて……ない」
「それは試してみないとわかりません」
フェンネルさんは値踏みするかのように、私の顔を指でなぞる。私の言っている事なんて何の意味もなしていないみたいで、口元は優美な笑みに模られていた。
「私はアニスが憎いです。この世で一番ね」
「兄弟、なのに」
「兄弟……、だからなのでしょうか?私にはアニスは邪魔以外何でもありません。それにアニスを殺したいのは山々ですが、そんな真似をしたら父が悲しんでしまいます。ですから、アニスは殺しはしません」
フェンネルさんの声も、優しい声のまま。
恨みの込められた言葉を聞きたくないのに、耳を塞ぐ事も出来ない。
「……代わりにアニスの大事な物や、アニスを大事に思う物を壊してやれば良いと考えたのです」
内面とは似つかわしくない外面。崩さない笑顔で、恐ろしい言葉を言う。
「香夜さんの指や耳を送りつけた後で、首でも送りつけてみましょうか」
私はここで死ぬんだ。
怖い。私はまだ死にたくないのに、フェンネルさんの手によって強制的に命を摘み採られる。
私が浅はかにも玄関のドアを開けなければ。
相談があるからと、気を許してしまわなければ。
以前フェンネルさんにされた事を忘れたわけじゃないのに。
――アニスに何度も注意されていたのに。
悔しくて、情けなくて。
私はここで死んでも仕方ないくらい、救いようのない馬鹿だ。
そう考えたら、自然と涙が止まらないでいた。
不意にフェンネルさんが髪から手を離し、横たわる私の身体をなぞった。
いつ身体を切り取るか算段をしているのか、肩から腰までのラインをゆっくりと往復させる。
不快な気持ちを表したくて、私の憤りを知ってもらいたくてフェンネルさんを睨みつけた。
「……良い顔ですね、香夜さん」
私の気持ちを知ってか知らずか、フェンネルさんの指が私の頬をなぞる。零れ落ちる涙には触れずに、顔にかかる髪を掻きあげて私を見つめた。
「香夜さんを切り刻む前に、犯してみましょうか」
事も無げに話すフェンネルさんの声に、心臓を鷲掴みされたかのようだった。
フェンネルさんは、私をどれだけ恐怖に陥れたら良いのだろう。
「アニスに言ったら、どんな顔をするでしょうね」
「別に……、そんな事、しても……、何も、ならない」
途切れ途切れに漸く発せた言葉は、本心だった。
好き勝手に私を奴隷として扱うアニスが、そんなフェンネルさんの思惑通りにことが運ぶわけがない。玩具を壊されたくらいにしか、きっと思わないだろう。
「そんな事ありません。私の知る限りでは今まで女性に対して興味を持たなかったアニスです。香夜さんを凌辱したなどと見聞きしたらどんな態度に出るのか」
だからって、アニスが……。
でも……アニスは私を心配してくれる事もあった。
もしかしたら少しくらいは悲しんでくれるんだろうか。
「どうせ犯すなら場所を変えましょうか」
石畳にコツンと、フェンネルさんの靴音がやけに響く。
私の身体に手を差し入れると、上半身を起こした。まばらな意識はあるものの、ろくな抵抗が出来ずにされるがまま。
「次にこの部屋に来る時は、香夜さんの身体が切り刻まれる時です」
重く沈んだ身体を、フェンネルさんは軽々と抱き上げた。未だ続く息苦しさに、抱かれた浮遊感が私のまばらだった意識を霞ませる。
「本当に見物です」
記憶が途切れる寸前、悪魔がほくそ笑んだ声がした。