「香夜ちゃん」 アニスの声に、緊張していた身体が強張って震えた。 「はっ、はぁっ」 「大丈夫ー?だいぶうなされてたみたいだけど」 たったさっきまで私を真上から見下ろしていたアニスはおらず、ベッドの脇から覗き込んでいるだけで、部屋の天井がよく見えた。 じっとりと汗を掻いていたようで、パジャマが身体に貼りついている。 目を見開きながら、自分の身体を恐る恐る見る。 手足には縛られた様子もないし、自由に動かす事も出来る。 顔を少しだけ動かし、横目でアニスを見る。 そこには無邪気な笑顔を向けていて、傍らにはあの呪いの人形がいた。 「ここで……、何をしてるんですか……」 「だから、香夜ちゃんがうなされてたから起こしに来てあげたのー」 額に貼りついた髪を払うように拭い、私は大きく息をついた。 ああ、あれは夢だったのか。 良かった、夢で良かった。 まだ心臓が激しく動いていて身体になかなか力が入らないし、頭の中も朦朧としていて興奮が治まらない。 「ねえ、どんな夢見たの?」 どんな夢って……。 「アニスが……、私の事縛って、レイプする、夢……」 額に右手を乗せ、目を瞑ったまま呟く。 疲労感が半端じゃなくて、喋るのも億劫に感じる。 「香夜ちゃん、夢で僕としちゃうくらい欲求不満だったの?」 「違います。レイプって言った」 じゃないですか。と言おうと動かしていた口を閉ざした。 私は激しく後悔した。 何馬鹿正直に話をしてるの!? いくら混乱していたからって、恥ずかしい内容の夢の話をどうしてアニスに言ってるの!? きっと馬鹿にしたように笑いながら私をからかわれる。 心身ともに疲弊しきった私にとどめを刺すような勢いで嘲笑うんだ! そう考えたら悔しくて、言わなくてもいい夢を暴露してしまった自分にうんざりした。 「どんな事をされたか詳しく話してくれる?」 「無理です。あんな卑猥な事を口になんて出来ません。凄く疲れてるんです。うなされてる所を起こしてもらって感謝はしてますけど、もう少しだけ寝かせてください」 ほらきたよ、とばかりにアニスの問い掛けに思いつく限りの反論をした。 私の声まで疲れ果てていて強い口調では言えず、ただ淡々と言葉を並べた。 「……香夜ちゃん、大丈夫だった?」 「アニス……?」 アニスにそう声をかけられ、馬鹿にする様子も皮肉を言うような様子もなく、心配そうにベッド脇から私を見ているだけだった。まして私が言った事に関しても、まるで聞いていないかのような返事。 正直拍子抜けしてしまって、毒気を抜かれた。 「夢に出て来たのは僕かもしれないけど、僕じゃないよ?僕はここにいる」 アニスはそう言って、遠慮がちに私の頭に手を置いた。 思いもよらない行動に、私は何度も瞬きをした。 「……この人形の呪いはロクな呪いじゃないみたいだね」 「どう言う、意味、ですか?」 「香夜ちゃん、カヤとキスしたでしょ?呪う対象から命を……、例えば爪、髪、血液、息、その人の生を貰うと、呪いの力は強まるんだ。けど、普通の呪いだったはずなんだけど……」 浮かない顔のアニスはぼやきながらカヤに視線を落とした。僅かに首をかしげるアニスは、そのまま考えるようなそぶりで押し黙る。 追うように私もカヤに目を向ければ、その人形の身体に縄がかけられていた。それもとても複雑そうな縛り方で。……どこかで見たような、と、思っているとアニスは溜息混じりに口を開いた。 「インキュバスの鏡が混じってたのかも……」 「インキュバス?」 「悪夢だよ。悪魔の子を孕ませようと、夢の中に出てくるの」 そんな厄介な物まで混ざっていただなんて、もっとしっかりと管理しててよ! 言いたいけど、あまりの虚脱感で怒る事が億劫でしかたない。 再び眠気が襲いかかる。 よほど疲れていたのか、アニスに対しての苛立ちを抱えたまま私は瞼を閉じた。 次に目覚めた時には疲れはどこかに飛んでいて、変な夢を見る事もなかった。 身体を起こせば半分寝ぼけてはいるものの、尋常じゃない喉の渇きにおぼつかない足取りで階下に向かった。 「……アニス?」 リビングに入れば、アニスがキッチンに立っていた。 「香夜ちゃん、おはよ」 「おはよ、ございます。あの、何をやってるんですか?」 「え?」 ぼーっとする頭で、アニスが持つ小さな鏡とカヤを見る。 カヤの口や目などを縫い付けていた黒い糸や身体を縛っていた縄も全て切られていて、ただでさえ不気味だった姿が余計異様な物になっていた。 「いらないから処分するのー」 のんびりと間延びした声が返ってくると、アニスは笑顔のまま赤黒い炎を両手に帯びた。 瞬く間にカヤと鏡が炎に巻かれる。 「え、えっ!?」 危ないとか、火事になるとか、そんな事を思っていたら、寝ぼけていた頭は一気に覚醒し、パニック状態に陥った。 慌ててアニスに近づこうとすると、それを拒絶するように炎が大きくなった。熱風にアニスのゆるく癖のある髪が巻き上がる。 熱気にやられ、私はそれ以上近づく事が出来ない。けど、そのままでいたら危ない。 「アニス、危ないですっ!こんな所で火事を起こさないでください!」 「大丈夫だよ、僕の手の上でしか燃やしてないから。水も側にあるし」 「そんな問題じゃ……、火傷しますよ!?」 「僕を誰だと思ってるの?」 「……悪魔」 「だから平気」 淡々と話すアニスは燃え朽ちていくカヤと鏡から目を離そうとしない。 悪魔だからって平気だとしても……と、少し心配になりながらジッとその様子を窺った。 アニスの言った通り、確かにカヤと鏡は灰すら残らないほどに徐々に姿を消していた。 一方のアニスの手は赤黒い炎に巻かれながらも、一切の火傷や傷は見られない。 ついには全てが燃え尽き、アニスの炎も次第に弱まった。 「お腹空いちゃった。香夜ちゃん、朝ご飯食べよ?」 手を軽く払うような仕草をすると、何事もなかったようにキッチンを去って行った。 今の今までアニスによって占領されていたキッチンに私が入れば、まだ少し熱気が残っていた。 私がどうにか処分してくれと何度も訴えたのに、何の行動も起こしてくれなかったのに。 もやもやとしながら手を洗い、リビングでくつろごうとするアニスに視線を向けた。 「どうして人形と鏡を焼いたんですか?私が言っても人形を処分してくれなかったのに……。鏡だってわざわざ集めてたんでしょう?」 「僕を勝手に作り上げて、夢で悪さをしたからだよ。とんだ粗悪品だし、この鏡も余計な事をしてくれたからついでに処分しただけ」 「散々人形の自慢してたくせに……」 「何か言ったー?」 何か言った所で勝てる見込みもないし、……もう何も言うまい。 「何でもありません」 ともかくあの厄介な人形がなくなったのだから、それだけでも良しとしよう。 ただ、あの夢に見たアニスに少し心が揺れてしまった私は、本当は欲求不満だったんではないか思った。ぼんやりと回想しながら、あの時の熱を思い出し、身体が疼くような感覚に陥った。 不埒な考えを吹き飛ばすように私は慌てて頭を振り、朝ご飯のメニューを考えた。 |