「香夜ちゃん」 不意にすぐ後ろから呼ばれ、私は振り返った。 するといきなり目の前が暗くなり、ふわふわとした感触が顔全体に当たった。 「なっ、にするんですかっ」 「カヤと香夜ちゃんのチュー」 アニスは私が振り返って油断している隙をついて、呪いの人形とキスをさせたのだ。 思い出すのも嫌だ。結構忘れていたのに、再び私の前に姿を現した呪いの人形をアニスは抱きしめていた。 「良かったねーカヤ」 楽しそうにしているアニスは私になんて目もくれず、呪いの人形と笑顔で会話をしていた。いや、人形相手なんだから、独り言だ。 「アニスも人形と話をするようになったんですね。でもちょっと趣味悪いですよ。もっと可愛いこ達がいるのに、よりによって呪いの人形だなんて」 「自分の事棚に上げて、よく僕の事が言えるよね。第一、僕の呪いの人形と香夜ちゃんのぬいぐるみを一緒にしないでくれる?僕の持っているのは、由緒ある呪いの人形なんだから」 「はいはいわかりました」 棒読みのセリフでアニスの遮れば、面白くなさそうに横目で私を見る。 本当なら反論したい所なのだけど!私の可愛いトニーやミミ達の素晴らしさを嫌ってほど講釈してやりたいのに! ……残念ながらアニスを言いくるめるだけの話術を、私はもっていない。 断念せざる得ないと思いつつ、アニスに面白くなさそうな顔をさせてやった事だけでも満足だと、自分に言い聞かせた。 「もう、くだらない事で私を呼び止めないでください。アニスと違って忙しいんですから」 「どうしたの香夜ちゃん。いつもと比べて、随分カリカリしてるねえ」 「カリカリもしますよ!どうするんですか、これ!?」 リビングの絨毯の上。私の座る目の前には大量の鏡。大きな物から小さな物までサイズや形も色々様々。思い出されるのはハロウィンの時のかぼちゃの洪水。 またこんな物を集めててと、私は口を尖らせてブツブツと零しながらアンティーク調の小さな手鏡を一つ手に取った。 「そんな不満そうな顔をしないのー」 横にいるアニスは私の頬を遠慮なしにつまんで引っ張った。 「不満にもなります!痛いですからやめてくださいっ」 「だってせっかく集めた鏡、香夜ちゃんが迷惑そうにするからだよ」 すぐに頬から手は離されたけど痛くて、自分で慰めるように頬を撫でた。 絨毯に散らばる鏡は銀のフレームの丸い物や、八角形の木製、大きな物だと三面鏡の姿見など、何十個も良く集めたものだと、呆れと疲労感とでいっぱいになりながらため息を吐いた。 「こんなに持ってきてどうするんですか……」 気が抜けたように零し、私の手にある手鏡に目を落とす。 真鍮で出来た手鏡は左右対称に小さな天使の羽のような飾りがあり、まるで羽ばたいているような鏡だ。 固いその翼を指でなぞり、フレームに爪先を当てた。 「それ、気に入ったの?」 「いえ、別に。可愛いとは思いますけど」 「その鏡ね、夜になると泣くの」 「……はい?」 アニスは鏡を持つ私の手の上から握り、真鍮の手鏡で焦る私を映しながら口を開いた。 「夜になると泣くの」 「どうしてですか」 「どうしても何も、呪われた鏡なんだもの。ここにあるの、全部。でも天使が封じられたのはこの鏡だけで、あっちにある布で巻かれた大きい鏡は、自分の死に顔が映るって鏡でー」 「どうしてですかー!?」 また呪いのシリーズですか!?こんな可愛い鏡が呪われているなんて信じたくなくて、アニスに詰め寄る。 けれどそんな私の気迫を軽く受け流し、アニスの手を振り払うようにして鏡を絨毯に放り投げた。 「ちょっと投げないでよ、割れちゃったらどうするのー?」 わたわたと落ち着きをなくした私をアニスは咎める。 けどそんな呪われた鏡だなんて聞いちゃえば、気持ち悪いとか怖いとしか思えないじゃない! 「これはね天使が悪魔と契約したんだ。一人の人間を好きになって、悪魔に魂を売った天使が封じられてるの。元々の持ち主だった悪魔は面白半分で取引きをして、天使を手鏡に封じてコレクションにしたんだ」 「悪魔に魂を売るんじゃなくて、悪魔が騙したんじゃないんですか?」 「天使は望んで命を投げ出したの。だから自分が手鏡になる事を喜んで承諾した。天使が望んが事をしているのに、何で悪魔が悪いって言われなきゃならないの?何も悪魔ばかりが悪い事をしてるわけじゃないんだよ?」 アニスはソファーに呪いの人形を座らせると、テーブルに頬杖をつきながら私を横目で見る。 「悪魔のせいにして、天使は自分の行動を正当化しようとしている。結構狡いんだよ、天使って」 私の中の天使像と言う物が音を立てて崩れる。 何でもないように喋るアニスから聞かされた私は、かなりショックを受けた。 だから咄嗟に口に出た言葉が。 「嘘ですよね?だって、天使って言うのは神の御使いであって、清廉潔白って言うか、高潔って言うか。何か人間の欲とかとは縁遠い感じがするんですけど」 「一つ欲しいと願って手に入れば、また一つ欲しくなる。欲望は誰にでも魅惑的で、そそられる事が多いんだ。誘惑はたくさんあるし、それらは楽しいし。そう思うのは誰だって一緒。例えばこの鏡……」 アニスは言葉を探すかのように頬杖をついたまま瞼を閉じた。 「天使は人間の女を好きになってしまいました。でも人間一個人に特別な感情を持ってはいけないと、天使は葛藤しました。天使は神の使いであって人間全てに対して平等でいなければならないと思う気持ちと、一人の人間に焦がれる切ない思いをどうして良いかわからなくなってしまいました」 まるで物語を読むように話すアニスに耳を傾ける。 その情景を思い描きながら、私もつられるように目を閉じた。 その時に天使は思いついたのです。誰かに相談しようと。悪魔なら予想をはるかに超えた名案を出してくれるに違いないと、見知った悪魔に声をかけました。 相談を受けた悪魔は問いました。好きな人間とずっと一緒に居たいかと。天使は居たいと即答しました。簡単だと、悪魔は言いました。ならば鏡になれ。その人間を毎日映しだして、お前が愛でてやれば良いと言いました 悪魔の言葉を天使は迷う事なく受け入れました。悪魔はその人間が生をまっとうした後、鏡となった天使をもらうという契約を提示しました。天使はその条件を喜んで呑み、悪魔の手によって鏡に封じてもらいました。 それから悪魔はその人間に接触しました。この鏡はあなたをより美しくみせてくれる魔法の鏡です。毎日この鏡を見て、美しくなってくださいと言って人間に鏡を渡しました。 毎日のように人間は鏡を見ました。毎日天使が封じられた鏡だけを見続けました。食事もとらず、痩せ細っていく身体になりながらも、人間は鏡を片時も離しませんでした。 欲深くて惰弱な人間は、鏡に映る綺麗になった自分を見ている事が幸せでした。他の鏡では見たくない現実ばかりを突き付けられてしまい、背けたい今から逃げて、あっさりと鏡に憑りつかれてしまっていました。 人間はひどく醜い顔をしていました。人間は顔が醜いなら心だけでも美しくありたいと生きていました。しかし鏡の出現によってその脆かった均衡が簡単に壊れてしまったのです。 天使は心の美しい人間が好きでした。しかし天使が鏡になった事で、その人間の人生を狂わせてしまったと嘆きました。 心身共に弱る人間は衰弱し、ついには鏡を胸に抱きながら息絶えました。鏡となった天使は死んでしまった人間を映す事しか出来ず、深い悲しみに落ちました。 人間が死んだ事によって鏡は悪魔の元へ戻り、毎夜己の犯した罪を悔いながらすすり泣くのでした。 「おしまい」 話が終わったと気付き、瞼を上げた。 妄想を掻き立てられ、簡単に想像できた場面。 救いようのない、悲しい話。けれど、とても重い話に私は精神的に消耗してしまった。 「とても悲しい話ですけど、やっぱり悪魔が唆しているようにしか感じないです」 「でも天使は自分で選んだんだ。悪魔は選択肢を与えたにすぎないでしょ?悪魔は強制をしていないんだもん」 「だからってやり方が汚い気がします。まるで悪魔はそうなるように仕向けてるんじゃって疑ってしまう」 「客観的に見たらそう思うかもしれないけど、結局天使はズルいよ。自分では何も出来ないのに、悪魔に背中を押してもらってやっと行動している。自分で破滅の道を選んでおきながら、結果がどうなるかなんて考えてないから後で泣く事になったんだ」 「その天使はまさかそんな鏡にされるなんて思ってもないと思いますよ。半分騙されたって言っても間違いじゃないと思います」 「悪魔がやりそうな事を考えずに思慮を怠った事は、人間を盲目的に好きになったばかりに天使が犯した罪だよ」 至極真面目に話をする私に、アニスは不思議そうな顔を見せていた。 考え方に違いは人それぞれ。平行線を辿りそうだったから、反論するアニスに返事をせずにこの話を終わらせた。 一度投げ出した手鏡を手に取る。 なんだか切ない。そんな思いを持ちながら、視線を落とす。 人間だってある意味一緒だ。 良い事と悪い事、心は常に両極の事を考える。善悪の葛藤を持ちながら、人間は成長していくんだ。 この天使は弱かったのかもしれない。一人で悩んで苦しんで、相談相手を間違えなければ、また違う結末が待っていたかもしれないのに。 「気付いた時には、もう後戻りできないくらいまで来てる。だから、とことん堕ちる所まで堕ちるしかないんだ」 独り言のように呟かれたセリフは酷く心に響いた。 軽くない言葉は、暗くなっていった気持ちを更に不快にする。 「僕だって……」 珍しくアニスが真面目な話をするものだから、つい聞き入ってしまった。 その間、仕事の手は止まってしまっているわけで。意味深に残された言葉の意味を深く考えず、たまった家事に取り組んだ。 |