アニスの会社から戻ってから、私はどうしたものかと色々考えていた。……速水くんに渡された名刺を眺めながら。 携帯がないから家の固定電話を使えば良いんだろうけど、なぜかアニスは電話のあるリビングから出ようとしない。 家事の合間に隙をみて電話をしようと思っても、私の隙をついてアニスは自分の用事をしている。……困った事に、私よりも上手なようだ。 コードレスだからってコソコソと電話を持ち出せば変に見られるかな? それとも正直に、アニスに電話使いたいから席を外してもらえるようにお願いした方がいいのだろうか? だからって馬鹿正直にそんな事を話したら、余計に居座るような気もする。なんてったって私の嫌がる事を喜んでするんだもの。 うーん、どうしたら……。 でもちょっとまって。私、なんでアニスに遠慮しながら電話しなくちゃいけないの? 別に聞かれて困るような話をするわけじゃないんだし、アニスがいてもまったく問題ないじゃない? そう思った私はいそいそと電話の所に行き、名刺を片手にボタンを押した。 「はい、速水です」 「あ、速水くん?宮田です」 「おせぇ!ったく、何やってんだよ。待ちくたびれたじゃねーか」 「ご、ごめん。今日は本当にごめんね、ちょっと急いでいたもんだから。今大丈夫?」 最初から喧嘩腰にならないでもらいたいと言いたかったけど、怖いからやめよう。 「……おう、いいぜ。急にいなくなった経緯を、これからじっくりと話してもらおーか」 「あの、でも……、いったいどこからどう話したら良いのか」 「最初から最後までを全部だ、何回も言わせんなよ」 「それはー、僕が香夜ちゃんを奴隷として契約したから仕事は辞めなくちゃならなくなってー、僕のお世話をするためにアパートも解約してー、僕と一緒の生活を楽しんでるのー。あはは、香夜ちゃん、僕今電話してるんだから、あんまりじゃれないでよー」 背後にいたという気配をまったく感じなかったのに、あっさりと受話器はアニスの手に取られた。 そして電話を取り戻そうともがく私を空いてる手が頭を押さえつけていた。それはとても遠慮のない力で。 「ちょ、アニス!――フガッ」 「なんだテメー……。あれか、さっき宮田と一緒にいた男か?」 「ぴんぽーん」 「ングーッ、フガッ」 押さえつけられていた手は私の口に回り、あろうことか鼻と口を同時に塞いでいる。 息が出来ない!苦しい! 「宮田を奴隷ってどういう意味だ。つーか俺達の仕事を放りだして奴隷になんて喜んでやってんのか。……事と次第によっちゃ許さねぇ」 「そのまんま、奴隷。ド・レ・イ。そうだよ、香夜ちゃんはとっても楽しんで奴隷をしてくれてるの。許すも許さないも香夜ちゃんは僕のなんだからちょっかい出すのやめてくれる?」 「ほー、宮田がお前のね……。おい、宮田に代われ」 「香夜ちゃんは僕のお世話で忙しいんだよねー。ほら、僕も男だし。色々と溜まっててさー。これから香夜ちゃんが泣いて喜ぶくらい、たっぷりと出してやらないと」 「……おい、そこの住所言え。今すぐ言え!お前、ぜってー殴る!宮田もついでに殴ってやる!」 「あはは、無理無理、ばいばーい」 「おい、コラ!テメ」 当事者である私を抜きに二人の会話はどんどんヒートアップ! 受話器から漏れ聞こえる声に否定したかったのに、今の私にはそれが出来ずにもがいているだけ。 そんな一人修羅場をハラハラと体感していると、アニスは突然電話を切った。そして私の鼻と口も解放されて大きく息をつく事が出来た。 「どうして私の電話を取ったんですか!」 「香夜ちゃん生意気だねぇ。何の権限があって電話を使ってるの?」 「用事があったんだし、電話くらい良いじゃないですか!」 ……嗚呼、どうしよう。とんだ巻き添えで私まで速水くんに殴られちゃう。 せっかく穏便に話して終わろうとしていたのに。アニスのせいで、確実に被害が広がっているような気がする。 場所が場所だけに、速水くんとばったり会う確率はかなり高い。再び会う事があれば、奴隷を喜んでやっていると勘違いしている速水くんに、こってり、みっちりと説教されるに違いない。 仕事を途中で放り出して何やってんだって。嗚呼、怖い。 速水くん、血の気多いからすぐ怒るんだけど。それにしても今日はいつにも増して怒ってた。 ……そりゃそうだよね。仕事のパートナーが突然なんの挨拶もせずにいなくなって、連絡もつかなくなっちゃね。しかもいなくなったと思えば職場近くでばったりと出くわすわ、アニスみたいな変な人に絡まれるし。怒りゲージが上がっても、おかしくないよね……。 「電話したいなら僕の許しを得てからにしてもらわなくちゃ……。もう一回奴隷の心得を教えなくちゃいけないねぇ。……僕の話、聞いてないでしょ香夜ちゃん」 「――っは、聞いて、聞いてますよ!ごめんなさいっ。電話はアニスに聞いてから使うようにします」 悪巧みをするような目と口元で笑うアニス。まずい、非常にまずい。 これ以上突っ込んだ話をしても私に勝機はないし、ましてとんでもないネタを用意するかもしれない。 今は素直に謝って、従った方が得策。 「つ……次からは気を付けます」 「そうなのー?急に謙虚になっちゃってつまんないね、香夜ちゃん」 得策だと自分決めた事とはいえ、不本意なのに悔しい! でも……まあ良いでしょ。アニスからの脅威を回避出来ただけ、良しとしよう。そうでも思わないと、私の気持ちが治まらない。 「さて、今日も一杯洗濯物溜まってるから、洗濯お願いね」 「毎日毎日洗濯してるのに、どうしてこんなに毎回あるんですかー!」 「仕方ないじゃん。僕男だし、王子様だし、洗濯なんてした事ないんだもん」 「だからってアニス一人のために、どうやったら毎日のように洗濯機を10回近くも回さなきゃいけないんですか!」 「だって僕お洒落さんだから、服がなかなか決まらなくてさー。試着を何回も繰り返して、その日の服がやっと決まるんだよねー」 「……って事は、何ですか?まさか試着した服を全部洗濯に出してるんですか?」 「そうだよ」 「ななななな」 「一回袖を通しちゃうとさ、次に着たくないんだよね。ほら、僕綺麗好きだし」 胡散臭い笑みで、大量の洗濯物を渡すアニスに、庶民の心得を教えてくれる人はいないのだろうか。 私がアニスに言いつけられた仕事をこなしている間に、また隙を見て電話をしよう。そう思って、ポケットに入れておいた名刺を探した。 「あ……れ?名刺が、ない?」 「燃えるゴミは焼却処分が一番だよね。ダイオキシンが発生しないように超高温で燃やすから、とっても安心だね」 たったさっきまで姿が見えなくて安心していたのに、突然現われたアニスはそんな事を言いながら、名刺を私に翳して見せた。 その名刺はユベールさんがたまに吸うからと、用意してあった灰皿の上へ。手品みたいにほんの一瞬で、名刺は火に包まれた。火と言うより、業火に近いのかもしれない。業火なんて見た事はないけど、きっと例えるならそう。 ガラスの灰皿までも溶けてしまうんじゃないかと思うくらいの炎。突然の事で呆気にとられていると、名刺はほとんど灰も残らないような哀れな姿に変わっていた。 アニスは満足したのか、鼻歌混じりになりながら二階へと階段を上って行った。 よし、今なら……。 それならばリダイヤル機能を使ってもう一度電話をして、謝るだけ謝ろうと思い受話器をこっそりと取ってキッチンの片隅でしゃがみこんだ。 「こちら消防署です。火事ですか?救急ですか?」 「す、すみません!間違えました!」 リダイヤルが……119番になってる! まさかリダイヤルまでもアニスの手にかかっているとは思わなかった。 「香夜ちゃん、勝手に電話使っちゃ駄目だよっていったよね」 「ひぃぃっ!」 再度気配なく現われたアニスを見て、「悪夢再び」の文字が頭の中をスクロールする。 「ご主人様の言う事を聞けないような奴隷は、躾と一緒に罰も受けてもらわなきゃいけないなあ」 それはそれは楽しそうに笑うアニスを前に、それはそれは悔しそうに顔をしかめる私。 いつもの風景に戻り、私は一瞬にして速水くんの事は忘れてしまった。 |