三月十四日を明日に控え、私はとても気分を重くしていた。 「何も思いつかない!」 どうしよう、どうしようっ! あからさまなホワイトデーの催促が始まったのが、一週間前。 雑誌のホワイトデー特集が掲載してあるページを開いた状態で、ダイニングテーブルに置かれているくらいならまだ良かった。 ホワイトデー関連の広告がトイレに貼られていたり、脱衣所にある鏡に口紅でホワイトデーとルージュの伝言よろしく書かれていたり。 脅迫文かと疑いたくなるような、新聞紙から文字を切り抜いて作られた手紙が部屋にあったり。 内容は勿論「ほY都デー」と。 内情を知らない人が一見した所で何だかわからないだろうけど、今までのプレッシャーを受けてきた私にとっては容易に思い付くものだった。 お金はないし、一人で出かける事も出来ない。 ……以前言われた、アニスに縛られ家に縛られていると言う話。 あの話が本当かどうか、怖くて今まで試せなかったけど。 もしかしたらアニスの嘘かもしれない。 アニスが留守の時に私が簡単に逃げ出さないようにするための脅しなんじゃ……?と勘ぐってしまう。 今まで怖いからと一人で家から出た事がなかったけど、ホワイトデーの重圧に苛むこの家にいたくない。 薄給でこき使われるのも嫌だし……。 なけなしの財産が詰まった財布を握り締め、私は静かに玄関に降り立った。 アニスはユベールさんに用事があるからと、早朝から出かけていて今はいない。 もしあの話がアニスの嘘であるなら、私は外に出て自由になれる。 ……チャンスは今しかない。 そう思った私はトニー達を大きめのバックに詰め込み、階下に戻る。 よし、と気合いを入れて、恐る恐る玄関のドアを開けた。 「アレ……、大丈夫?」 玄関のドアは軽々と開き、少し拍子抜けしてしまう。 いや、油断は禁物。 まだ敷地内にある門を通過していない。 玄関から3mほど離れた道路に面した場所に、鉄柵で出来た扉がある。 不審者のように辺りを見回しながら、扉に手をかけた。 「ヒッ!?」 突然足元を掠めたサラリとした感触に、下を見れば。 「……ロビン?」 「ニャアン」 黒猫ロビンが私の足に纏わりついていた。 「もー、ビックリさせないでよ」 荷物を置いてロビンを抱き上げれば、二本の尻尾を器用に動かして私の身体に優しく当ててきた。 「また私を見てたの?」 「ニァー」 金色の瞳を細め、顔を胸元に擦り寄せていた姿を見て、諦めに似たため息が出る。 ロビンはアニスの指示で私を監視しているんだもの。 このコに罪はない。 「ごめんね、私行かなきゃ」 ロビンを優しく包み込んで抱き締める。 そしてソッと下に降ろし、変わりに荷物を掴んだ。 私は再び鉄柵に手をかけるが、そこから先に力が入らない。 ……ここに来て、尻込みしてしまうのはなぜだろう。 怖いのもある。 ここから先に出たら、一体何が起こるのかどうかわからないから。 もう一つは……。 「チョコレートファウンテン、美味しかったな」 初めて貰った逆チョコが、アニスからのチョコレートファウンテン。 リビングに入ってチョコレートの甘い匂いにウットリとしていた時に、ちょっと得意そうに悪戯っぽく笑ったアニスの顔が思い浮かんだ。 「ナァーン」 行くなと言わんばかりにロビンは足元に絡み付いてくる。そこから離れようとはしない姿を見て、私はロビンに話かけるように呟いた。 「どうしよう……」 ここへ来て、これほどに葛藤する自分に驚いた。 ここから逃げたい。 けど私が喜ぶ姿を見ていたアニスの表情が頭から離れずに、それはどんどん鮮明になっていった。 「……ロビン」 足に纏わりつく姿を目で追い、諦めの息を吐き出す。 「戻ろっか?」 ロビンを抱き上げ、少し後ろ髪引かれる思いを残しながらも家に入った。 家から出るまでは時間がかかったのに、入るまではものの五秒もかからない。 あれだけビクビクしながらも、どこか気概めいた気分でいた自分から力が抜ける。 家に入るとロビンは私の腕から抜け出て、一度も振り返る事なく階段を駆け上がった。 急に感じた喪失感に私は荷物を階段の前に置き、少し寂しい気持ちでリビングへと入って行った。 ソファに腰を落ち着け当初の目的だったはずのホワイトデーの重圧を思い出し、お返しをどうするか私は再び頭を悩ませる事になった。 しかし悩んでいる暇はない。戻ると決めた以上、何かしらしなきゃ! 私は自分を奮い立たせ、めぼしい物はないものかとリビングやキッチンを漁った。 「これだけか……」 家にあったお返しに使えそうな物達。 アニスの食べかけのクッキーと、アニスがココアに浮かべる用にと購入した使いかけのマシュマロ。 それと、アニスのおやつである板チョコが一枚。 このまま渡したら、笑顔で突っ返されるのは目に見えている。ましてこれらは全てアニスの私物と言っても良い物ばかり。 お金はないし買いにも行けないのだから、この素材達に何かしら手を加えなければアニスは納得してくれないだろう。アニスの物を勝手に使うのだから、それなりに見栄えの良い物に仕上げなければならないし。 「クッキーとマシュマロを細くてして、溶かしたチョコレートを混ぜて固めてみようかな」 頭でイメージするお菓子に、ちょっと美味しそうかも、と私はすぐに行動に出た。 少ない材料ではあるけど、アニス一人にあげる分くらいは確保出来るだろう。 チョコレートを湯煎で溶かしている間、クッキーを手で割り、マシュマロも手で千切った。 材料は少なく、失敗は許されない。 「行って来るねー」と言って、家を出たのはお昼過ぎ。 アニスが何時に戻るかわからない今は、早く作り終えるようにしないと。 この材料を見れば、明らかに手抜きと言われてしまいそうだし。 「でも精一杯の誠意を見せるんだもの」 チョコレートが溶けたのを見計らい湯煎から降ろし、クッキーやマシュマロを投入。 クッキーとマシュマロが均等になるようにヘラで必死に混ぜていると。 「……あれ」 あろう事か、マシュマロがチョコレートの熱に溶かされて白い泥状になってチョコレートと絡み始めた。 「や、やだ!」 若干見た目が汚くて、アタフタとしながらまだ固形のまま残るマシュマロを取ろうと手を突っ込んだ。 「熱っ……!」 マシュマロだけを摘もうとしていたはずが、勢い余って溶けたマシュマロとチョコレートに指が触れた。あまりの熱さに、一瞬にして目に涙が浮かぶ。 ねっとりと絡み付くチョコレートとマシュマロは見た目以上に高温だったようで、咄嗟に耳を触って熱から逃げようとした。……が、そんな簡単に熱が逃げる事はなく、チョコレート特有のねっとりした感触と移ってしまった熱が耳についた。 「熱いー!」 被害が拡大してしまった。 半泣きになりながら、私は水道のレバーを下げて流水に指を突っ込んだ。 「……あの荷物、なぁに?」 冷たい流水で指を冷やしていると、いつの間にか帰っていたアニスが私を不思議そうに見ていた。 「どうしたの?」 「えっ、あっ、あの……おかえりなさい」 こっそりとしようと思ってた矢先の帰宅。 慌てふためく私は水を止める事も出来ず、苦笑いを見せた。 「香夜ちゃん、何してるの?あの荷物はどうしたの?」 「え、や、別に。荷物はー……」 言えない。 ホワイトデーの重圧から逃れるために、家出を考えていただなんて口が裂けても言えない。 作り途中のお返しを見られたくなくて、私は指を水で冷やすのを止めてアニスのいるリビングに行った。 「何か隠してるね?」 「なな、何も隠してないですよ」 「本当ー?」 ジーッと私を見つめるアニスから逃れようと、意識しないように視線を泳がせると自然と目と一緒に顔までもが横に流れる。 しかしそれを許さないとばかりに、アニスは私の顔が向く正面に回り込んだ。 マズいと思って慌てて視線を逸らせば、アニスの笑う顔が嫌でも視界に入った。 しばし無言の圧力に堪えていたけれど、やはりアニスから発する不審な目付きに負けてしまう。 落ち着かずに髪を弄ったり、痒くもない頬を掻いたり。 不審な行動を取ってしまう自分が恨めしい。 「指、赤くなってる。……それに、これは何?」 掻いていた手を掴まれ、耳を指差される。 「それに甘い匂いがする」 もう駄目だ。 素直に白状してしまった方が、精神衛生上良さそうだ。 「じ、実は。ホワイトデーのお返しを作ろうかと思って……。でも失敗しちゃって……」 この際、アニスのお菓子達を使った事は伏せておこう。 言葉を濁す私に、アニスは「ふぅん」と声を出しただけで何も言ってこない。 それに手も離してくれない。 何か言ってくれた方が気が楽になるのに! 何も言わないなら、手を離してくれたら良いのに! これからどんな事が待受けているのかわからず不安になる。 「ホワイトデーにチョコレートねぇ……」 部屋に充満する匂いでチョコレートを使っていた事がわかったのか、アニスは意味深に呟いた。 そして。 「仕方ないから、これで我慢してあげる」 アニスは耳元で囁き、私の耳朶に舌を這わせた。 「来年は期待してるよ」 悪戯っぽく笑うアニスは一言残し、リビングを後にした。 手を離された私は恥ずかしさのあまり腰砕けになってその場にしゃがみ込んでしまい、その後ろ姿を目で追う事もままならなかった。 |