「トニー、聞いてくれる?」
お気に入りのぬいぐるみ、トニーの長い耳を撫でながら話しかける。
黒光りする作り物の目ではあるけど、私には優しく笑っているように見える。
そんなトニーに今日も慰めてもらう。
「どうしたら脱奴隷計画を実行出来るんだろう。お金はないしさ、……何と言っても、給料が二百円。有り得ないよね、アニスにこき使われてこんな薄給」
無言のトニーを抱き、ベッドに転がる。
フワフワの毛を顔に摺り寄せて強く抱き締めた。
「でもね、今日。少しだけなんだけどね、アニスを見直したんだ」
床に転がる、無残にも切り裂かれた服を見つめた。
得体の知れない恐怖。
フェンネルさんは悪戯をしただけだと言っていたけれど、そんな風には見えなかった。
心臓の音が耳の側で鳴っているような緊張感に、また身震いする。
剥き出しにされた背中に感じた熱。今にも肉を焼かんばかりの強烈な熱を、肌が覚えていた。
「フェンネルさんが来たよね。その時、私が心の中でアニスの名前を叫んだら、ちゃんと来てくれた。ちょっと嬉しかったんだ」
涙が零れないように目を天井へと向けて、涙声でトニーに語りかけた。
「あのままアニスが帰って来なかったらと思うと……」
きっとフェンネルさんは躊躇する事なく、私の背中に焼印を押し付けていたに違いない。
悪戯や冗談で済まないような、そんな空気だった。
再び投げられた服を見る。そして軽く自己嫌悪。
見た目に惑わされた代償がコレだ。
ぼろきれと化した服は、ある意味私の身代わり。もしかしたら、私がこの服のようになっていたかもしれない。
「怖かった……」
押し寄せてきた涙は食い止める事が出来ず、抱き寄せていたトニーに吸い込まれてゆく。
声を押し殺しながら嗚咽を漏らし、次第に蘇ってきたあの時の場面を思い出しては涙を流し続けた。
今日くらいはアニスはきっと大目に見てくれる。
部屋に閉じこもって家事をしなくても、きっと何も言わないだろう。
何より泣き腫らした顔を見せたくないし、身体がとてもだるい。
このまま眠りについて忘れてしまおうと、トニーと共に布団の奥深くへと潜り込んだ。
身体が動かなく不安で一杯の中、優雅にお茶を飲んでいたフェンネルさん。
その動けなくなった私を人形のように扱い、炎に包まれた紋章を見せつけて恐怖を煽った。
思い出したくない事ばかりが涙と共に次々に現れる。
安寧の地であるはずのベッドでも興奮は冷めやらず、丸くなってひたすら耐えた。
「ごめんね」
不意に布団の上から落ちた声。
それは聞きなれたアニスの声で。
驚きはしたものの、いつの間に部屋に入ったのだろうと、そんな考えばかりが頭の中を巡った。
どうしてアニスが謝っているのかも不思議で、アニスの声からワンテンポ遅れて布団から顔を出した。
そして見えたのは困り顔のアニスが上から私を見下ろす姿。
「ど……して、アニスが謝るの……?」
赤くなっているであろう目元を強く擦り言葉を詰まらせながらたずねる。
「香夜ちゃんに怖い思いさせちゃったから。それでずっと泣いていたんでしょ?何度もアレを見てたし」
誤魔化しが効かなかったのか、アニスは少し熱のある目元へと指を這わせ何かを確かめるように目尻を辿った。
そしてアレと言われた、ボロキレと化した服を一瞥する。
いつになく静かな声音に、ゆったりとした動きに。
アニスにされるがまま、私は暫くの間無言で見つめ合った。
「今回の事は香夜ちゃんの過失」
「イッ!?」
優しく動いていた指が突如私の頬を抓り、不意打ちで食らった痛みは想像以上痛さがあった。
急に与えられた痛みに怒ろうと身構えれば、苦しそうに眉を寄せた顔が私を見つめたままでいた。
フェンネルさんの事にしろ、今やられているアニスの悪さにしろ、私が一番の被害者。
……なのに、アニスの顔を見れば、自分が一番の被害者だと言わんばかりの表情をしている。
そんな事を思っていれば、アニスは辛そうに言葉を吐き出した。
「でも、僕の責任が一番大きい」
抓られていた頬からアニスの指が離れ、今しがた食らった不意打ちのせいで溜まった目尻の涙を撫でた。
「香夜ちゃんを泣かせて良いのは僕だけなのに、フェンネルなんかに惑わされて……泣かされて」
アニスはそう呟き、涙を指先で何度も拭った。
そしてまた、「ごめんね」と小さな声で謝罪を口にする。
こんなにも弱々しい感情を顔に出したアニスは見た事がなく。
初めての消沈した姿にただ呆然としてしまった。
怖かったという感情が引っ込み、目の前でうな垂れる姿が幻覚のようにさえ感じるアニスの姿。
私はアニスの指に手を伸ばし、緑の髪に触れた。
見た目よりもずっとしなやかな髪の感触が気持ち良くて、髪の流れに沿ってみた。
それはまるで撫でるような仕草。
「あんまり心配させないでね」
そんなアニスの言葉に、私は小さく返事を返した。