「お待たせ」
濡れた髪をそのままに、アニスは私の座るソファーに腰を下ろした。
二人座ってもゆったりと座れる大きさなのに、アニスは私の隣にぴったりと身体を寄せる。
「昨日はどうしてアデルバードの店に行ったの?」
背中を少し丸める私に対し、アニスはソファーに身体を預けているらしく、私の後方から声をかけてきた。
情けない事に心構えがまだ出来てない状態でいきなり核心を突くものだから、アニスをとても恨めしく感じた。
「あの……」
一度声を出す事で切っ掛けが出来たのか、少し楽な気持ちになる。
このままの流れでどうにか話そう。
誤魔化そうと言う気持ちと、素直に言おうと言う気持ちがせめぎ合ってて、自分でもどう話が進むのかわからないけど……。
「昨日アデルさんのお店に行ったのは、あの女の子を……アニスの妹さんを見て驚いて、街を歩いていたらアデルさんのお店の近くまで来てたから、そのまま……何となく飲みたくなってしまって」
「どうしてロベリアを見て驚いたの?」
「誤解だったけど……結婚を反対してたみたいだし。元カノだと思ってたから、私と一緒にいるよりあの女の子と一緒にいた方がアニスも、幸せなんじゃないかなって思って」
「僕は香夜ちゃんを好きだって、何回も言ったよね。それなのに僕は……昔の彼女と一緒になった方が良いと思ったの?」
力なく頷きを見せれば、大きなため息が聞こえた。
「本当に、香夜ちゃんはわかってないね」
アニスの呆れる声と一緒に、私の身体は後ろへと大きく傾いた。
「香夜ちゃんは僕に女の子の影があって、不安になったんだね?」
そんな事ないって、はっきりとは言えないけど、言い淀んでしまった言葉は結局無言を貫いてしまって。
「ヤキモチ妬いたんだ?」
「……違います」
「じゃあさ、昔の彼女と一緒になって本当に僕はそれで幸せになれると思う?」
こんな曖昧な私と一緒になるより、アニスを好きだと言っている人と一緒になった方が幸せだと思う。
だから私は小さく、無言で頷いた。
「へえ。僕は香夜ちゃんが好きなのに、どうでもいい女の子と一緒になる事が幸せになるんだ」
アニスの言い方を聞いていれば、それは間違いなんだと……言われている気がした。
それどころか罪悪感を煽るような言い方に、私の考えがアニスにとって不本意なものだと言っている。
まるで尋問のようなセリフが怖くも感じる。
アニスに後ろから抱き締められるように回される腕に力が込められた。
「ごめんなさい……」
だから私は自分の非を認めたと、そんなつもりで謝った。
「謝っても許さないよ」
アニスの言葉に私の身体が強張る。
「僕の事を信じられないから、そんな風に不安になったんでしょ?こっちの世界での婚姻届に関してもそうだし」
「それはっ、……婚姻届に関しては、結婚に実感がわかなかっただけで。やっぱり私達の世界では婚姻届って言う証明があって、それで結婚したんだって思えるから。アニスは私の事を好きって言いながらも、いつも私の事からかってばかりだし……」
言い訳紛いの言葉を並べ、私は言葉を一度区切る。
そして。
「ごめんなさい……」
再び謝罪を口にした。
「何に対して謝ってるの?ただ謝れば良いってものじゃないんだよ」
「アニスを……信じれなくて、……ごめんなさい」
「それだけじゃないよ香夜ちゃん」
私の身体を戒める腕に手を添えれば。
「どうして前の彼女に遠慮しようとするの?気になったんだけど、僕の事、好きじゃないの?」
この話をしていた間、呆れと怒りと合わされた態度でいたアニス。
口籠ってしまう。
「僕の事、嫌い?」
真剣な声が耳元で囁かれる。
茶化す事なく、真摯な態度でいたアニス。
前にも聞かれたセリフ。
それを私は首を横に振って答える。
「じゃあ聞くけど、嫌いじゃないなら、……僕の事、好き?」
言いたくないから聞かれたくないのに。
「ねえ、香夜ちゃん。答えて?」
急かし答えを求めるアニス。
私の気持ちを伝えれば良いだけなのに、どうしても言葉がでないし、行動でも表す事が出来ない。
でもアニスがいい加減な気持ちではなく、真剣な気持ちで聞いてくるのだし。ちゃんと受け止めて、真剣に答えなければならない。
大きく深呼吸をし、アニスの腕に添えた手で強く握った。
「私は……アニスの事」
言おうと思ったけど、いざとなると言葉が続かない。
なんて情けない。
一度咳払いをし、場を仕切り直す。
無駄にドキドキとする胸の鼓動。
私からの返事を囃し立てるのは、何もアニスばかりではないらしい。
「アニスの事、好き……です」
い……言ってしまった。
強い鼓動に押し出されるように出た言葉。
認めたくなかったのに、どうしよう。
自分でも言葉に出してしまったらとてつもなく恥ずかしいし、いたたまれない。
あんな悪戯ばかりで私を困らせては、その様子を楽しんでるアニスを好きだなんて。
……私、マゾみたいじゃない!
私の理想はあくまで大人な人で、決してアニスみたいな人じゃないのに。
自分の言ったセリフなのに、無責任にも心の中では全否定している。
往生際が悪いのは重々知っているし、そんな自分も嫌なんだけど。
でも一度でも言葉にしてしまって、やっぱり私はアニスが好きなんだと、わかった。
心中の言葉とは裏腹に、流れる映像はアニスのあの赤らんだ顔での告白や、フェンネルさんから助けてくれたアニスの必死な顔。
「……良かった」
ホッとしたように呟かれた言葉が耳を掠め、アニスは私を強く抱き締めた。
「僕、香夜ちゃんから直接聞いた事なかったから……本当は心配だったんだ」
「アニス……?」
「だから、すっごく嬉しい」
私の後頭部に顔を埋め、アニスは小さく呟いた。
本当に嬉しそうに聞こえる声音。
嘘じゃなくて、本心からの声。
最近感情が不安定だったせいもあると思う。
不安や苛立ち、嬉しかった事。ここ最近で様々な感情の中を右往左往していた。
「アニスも、不安だったんですか?」
「まあね」
私を包む腕を緩める事なく、アニスは答える。
私が色々な感情に飲み込まれそう……いや、実際飲み込まれていたんだけど。
そんな中、アニスは不安を抱えていたんだ。
アニスは……私と一緒だったんだ。
「……不安にさせて、ごめんなさい」
「僕こそ、ごめんね」
軽く後ろを振り返れば、アニスは少し腕を緩めてくれて。
変わりに身体を包んでいた腕は後頭部へと回り、アニスの方に引き寄せられた。
「もう、不安になんてさせないから」
交わしたのは約束と、私の身が蕩けてしまいそうな誓いの口付けだった。