アニスの声で、一瞬にして思い出す。
頭の中に昨日からの出来事が一気に流れ込み、私の顔から血の気が引いていった。
どうしよう、どうしよう!
何にも考えてない!考えていても、いきなり帰って来られたものだから順序良く話をする事は無理かもしれないけど!
「あれー?香夜ちゃーん?」
階下ではリビングを覗いたのか、誰もいない事に不審そうな声を上げるアニス。
放っておきたいけど、放っておいた所で何の解決にもならない。
かと言って、下に行く勇気がない。合わせて、ここいますなんて声を上げる事も不可能。
階段を上る音がする。嗚呼、どうしよう!
「香夜ちゃん?」
私の名を呼びながら歩くを音を聞く。それは徐々に近づき、釣られるように私の心拍数も上昇する。まるでホラー映画の主人公の気持ちだ。
キッ、と。微かに金属の軋む音が聞こえ、仄明るい中、ドアレバーがゆっくりと動いたのが見えた。
「香夜ちゃん?寝てるの?」
ドアが開き、中を窺うアニス。
私はと言えば、ロビンとベッドの上で戯れています、といった恰好のまま。
「香夜ちゃん、いたんだ」
横になったままの私の元へと、笑顔でアニスは歩みを進める。
「今度は僕の番だから」
私と一緒にいたロビンは、アニスの手によって摘まみ出されてしまった。
そして代わりにアニスがベッドへと潜り込んできた。
ちょっと邪魔です、なんて言えなくて。
それ所かアニスが来てから、私は一言も発せずにいた。
「香夜ちゃん、どうしたの?何か元気ないね」
私の顔を窺うアニスから思わず視線を逸らす。
すぐに顔に出るのであれば、元気がない事を覚られるのは私にしたら不本意だ。
「香夜ちゃん」
逃げる私を追いかけ、アニスは顔を覗き込もうとする。
けれど捕まりたくない私は、反対側に顔を背けた。
この攻防は三回繰り返され、アニスはそれに飽きたのか呆れたのか。
「何したいの?」
アニスは私の頬を両手で挟み、私を真上から見下ろしてきた。
万事休す、逃げ場がなくなった。
「何も喋らないし、目も合わせようとしないし。何かあったの?」
一度目が合ってしまっては、中々逸らせない。
強い光を灯した金色の瞳。
「ねえ、どうしたの?」
中々話そうとしない私に、アニスは業を煮やしたのか顔を寄せてきた。
キスされるっ!そう思ったら、私はアニスの胸を両手で強く押していた。
「……香夜ちゃん?」
益々不審な目で見るアニス。
何も言わない、目を合わせない、近寄ったら拒絶を意味する行動を取ってしまう私。
眉間に皺を寄せるアニスは溜息をついた。
「何があったか喋ってくれないとわからないよ」
胸を押したままの両手を頭上で固定され、顎を真正面へと向かされる。
こんな恰好で喋れと言われても……。でも、もう逃げられない。
「……まだ、私、混乱してて」
「何が?」
見下ろす金色の瞳。
さっきまであった苛立ちは影を潜め、諭すような声をかけてくれる。
昨日からあった事を時系列で話せば良い。
別に頭の中が混乱してても、あった事、思った事を記憶からなぞって話せば良い。うん、そうだ。それしかない。
「昨日……、私に忘れ物を頼みましたよね?その後でデートしようって」
「うん、言ったね」
「あの時、ユベールさんとツキちゃんが口論してて、それからツキちゃんはユベールさんに連れて行かれて。それを見てたらアニスがお人形みたいに可愛い女の子と口論してて」
そこまで話をし、アニスは「ああ」と声を漏らし、あの事かと言わんばかりだ。
「……元カノと会っていたなんて知らなかったし、私よりも彼女の方がずっとアニスの事を好きそうだったし。結婚も反対していたみたいだし……」
「香夜ちゃん?」
「それにアニスの友達に結婚の承認はしてもらったかもしれないですけど、婚姻届とか見た事も書いた事ないから、結婚してないんじゃないかって」
「ちょっと待って、香夜ちゃん。何か誤解してない?」
胸の内の苦しみを吐露したのに、怪訝そうに私を見つめるアニス。
誤解だなんて思わぬセリフに、私の方が怪訝な顔をしてしまう。
「誤解なんてしてません」
「誤解だよ。……もう、全部ユベールのせいだ」
吐き出すように呟かれた言葉に、顎を抑えていた手は離されたけど、両手は離されていない。
結構強く押しつけられているから、痛いんだけど……。
「昨日見た女の子、あれは僕の妹。名前はロベリア」
「え」
「会社に来てたのはユベールに会いに来てたから。結婚を反対するって言ってたのは、ロベリアがユベールに相手をされないからって、僕が幸せになるのが面白くないから呪いの言霊をぶつけたっていう、単なる腹いせだよ」
意外な展開で意外とある展開。
でも驚いたのは確かで、私は今一つ信用しきれていなかった。
きっと自分自身で考えすぎて、疑心暗鬼になってしまったんだと思う。
不審そうな面持ちのままアニスを見つめていれば、疲れたようなため息を一つ零した。
「ロベリアも性格が悪くてね。自分が一番注目されていないと気が済まないんだ。だからユベールが会いに来なくなった事で悔しくなったんだろうね」
「本当なんですか?」
「僕が嘘を言ってると思うの?」
「そう言うわけじゃないんですけど……、いまいち信用しきれなくて」
横に視線を逸らし、小さな声で呟く。
吐息すら聞こえるほどの近距離だから、たとえ小さな声で言っても聞こえると思う。
それにアニスにとって、私のセリフは面白くない物だとわかるし。普通に面と向かっては言えない。
「……婚姻届の事もありますし」
不安の種をもう一つ追加すると、きょとんとした顔のアニス。
それからすぐに眉を下げ、沈んだ空気を纏って息を吐き出した。
「僕は魔界のやり方で結婚出来たらそれで良いと思っていたんだけど、香夜ちゃんには足りなかったみたいだね。気持ちに気付けなかった僕も悪いんだけど」
アニスは魔界の住人であって、私は人間界の住人であって。
それぞれの世界の婚姻のやり方があるからで、アニスは全くもって失念していたようだ。
両手を押さえていた手が緩まり、力が抜けてゆく。
反省と言うか、申し訳ないと言った気持ちが若干だけど感じられた。
婚姻届に関してはついぞ今日知ったわけだから、別にそこまで気にする事はないんだけど。いや、確かに落ち込んではいたけどさ。
「明日、一緒に婚姻届もらいに行って来ようか?」
大なり小なりの不安を取り払うように、アニスは私の額にかかる前髪を掻き上げ、額に唇を落とした。
そんな言葉と仕草にさっきまで重苦しかった私の気持ちは軽くなり、心が穏やかになっていったのは事実だ。