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倉庫
まるで溺れていくような(APH:独墺)

男にしては色白で華奢な手が、流れるようにモノクロの鍵盤の上を動く。
たったそれだけで、繊細で情感に溢れたメロディが、その楽器の中から溢れだした。
最初は単なる音でしかなかったものが、急に意思を持ったように輝き始める。
まるで初めて歌う術を知ったかのように、そのピアノから音が流れ出る。
俺は思わず瞳を閉じ、その音楽に聞き入った。
疲れ切った身体に、それは柔らかく馴染んでいくような気がする。
暖かな水にゆるゆると包み込まれるような感覚。
安心感、というのかもしれない。
随分と昔から自分の家にあったピアノがこんなに美しい音色を奏でるなんて、などと柄にも無い事を考えた。
その間にも、彼の演奏は続いていく。
時に跳ねるように、また流れるように、驚き、喜び、悲しみ、怒り、愛しみ、希望、絶望、悲嘆、歓喜、感情の渦を従えて音は踊り狂う。
永遠に終わる事の無いように思えたそれは、しかし俺の意に反して急に終わりを迎えた。

…トーン、と不意にGの音が響く。
その単調でだが力強い音が、一気に今までの音の洪水を掻き消してしまったのだ。
同時に俺は現実へと呼び戻され、閉じていた目を開いた。
ほとんど聴覚で構成されていた世界から、鮮やかな色彩の世界へと急激に引き戻される。
ピアノ、壁、ドア、窓、天井、床、窓、花瓶、様々な色が自己主張する中で、俺は目の前の濃紺の軍服に身を包んだ男に目を落とした。

「…帰っていたのですね」

こちらを向かずに、聞き慣れた声が非難めいた口調で言った。

「ああ」

俺は生返事をしながら、そういえばこいつにただいまの挨拶をしていなかったな、と思った。
俺が帰って来たのはほとんど深夜だ。
てっきりもう寝ていると思っていたこいつがピアノを弾いているのに気付いたので、こっそり様子を見に来たのだった。
結局その演奏に聞き惚れてしまい、長居する羽目になってしまったが。

「…言って下されば良かったのに」

はぁ、とわざとらしい溜息を吐いて、目の前の男ーローデリヒは俺の方を振り返った。

「すまんな」

俺は危険を感じて素早く謝る。
こいつの小言は長い。
早めに謝っておいた方が得策だ。
ローデリヒはまだ何か言いたそうに口を開いていたが、うまい言葉が見つからなかったのか口をつぐんだ。
また遅れて帰って来た事にさんざ文句を言われるかと思っていたが、拍子抜けな気がする。
まあ怒られないにこした事は無いのだが。

「構いませんよ」

ローデリヒが溜息を吐いた。
貴方も近頃は忙しいですし、と付け足した言葉は、自分に言い聞かせるかのように細く小さい。
それに気付いているのかいないのか、

「ピアノ、もう終りますね」

立ち上がり、鍵盤に布をかけようと手を伸ばす。
あなたにも悪いでしょうから、と彼は少し寂しそうにこぼしもした。

「あ、いや…」

俺は歯切れの悪い制止の言葉をかけそうになった。
慌てて、続く言葉を飲み込む。
ローデリヒがこちらを見上げた。

「何ですか?」

柔らかな菫色の瞳は、俺の気持ちを見透かしているかのように見える。

「い、いや、何でもない…」

俺は顔を伏せた。

(馬鹿か、俺は!)

心の中で自分を叱咤する。
俺は今、「もう少しくらい演奏してくれても構わない」と、もっとお前の音楽が聞きたいと、そう言おうとしたのだった。

(何を、今更)

彼から音楽を奪ってしまうのは、他ならぬこの俺だというのに。
それは、彼にとって人生そのもの、とさえ言えるかもしれないのに。
恥を知れ、と自分に言い聞かせる。
何様のつもりだ、と。

俺達はこれから大きな…とても大きな戦いを起こさなくてはならない。
戦いが始まれば、たくさんの人間が死に、怪我を負うだろう。
それでも、その戦いは俺達に必要なのだ…いや、俺に必要なのだ。
戦いは、もうすぐ始まる。
その準備もしてある。
それが始まればきっと、目の前の彼も武器を手に取って戦おうとするのだろう。
俺の力になるために。
俺独りが傷付く事には耐えきれないから。
そんなものは似合わないと、俺は言ってやりたい。
彼の華奢な手は、武器を握るよりもピアノを弾いたり菓子を作ったりする方が、よっぽど相応しいのだ。
だが、その武器を持たせたのはやはり、俺だった。
俺と共になる事を選んだのは彼だったとしても、直接の原因は俺にある。
俺が戦わなければ、彼は俺を見守るだけで良かったのだ。
俺が戦うから、俺が傷付く事に耐え切れずに彼は戦う事を決意したのだ。
そんな彼の想いを、はっきりと断れなかったのも、俺の甘えだったのだと今なら思う。
本当なら今すぐにでも彼を此処から遠ざけたいが、もう事態は既に引き返せない所まで来ていた。

(初めから、分かり切っていた事だったのに)

俺は、今更になって激しい後悔に襲われている。
この強い衝動は、近頃ふとした拍子に浮かび上がって俺を苛むのだった。

(彼は…ローデリヒは、優しすぎるのだ)「…ッヒ」

(だから、俺の事も責めていやしないだろう、けれど)

「…ルートヴィッヒ」

(嗚呼、その優しさは俺も、そして何より自分自身を傷つけるのだ)

「ルートヴィッヒ!」

は、と俺は顔を上げた。
見れば、心配そうな顔をしたローデリヒが、俺を見上げている。
俺は考え事に気を取られていたらしい。
軽く頭を振って気を取り直す。

「大丈夫ですか?いきなり黙り込んで…」

疲れているでしょうに、すみません。
そう俺の目を見ずに呟く彼の顔は、酷く頼りなく見えた。
嗚呼、また。
また、あの後悔が俺の背からはい上がって来る。
ローデリヒが、無理をして微笑んだ。

「ほら、もうお休みなさい」

俺は苦笑する。

「お前は俺の母親か」
「減らず口を言わない!」

俺より年上の彼は、そう言って顔をしかめた。
そうだ。
せめて戦いが始まるまでは、彼にはいつもの顔でいて欲しい。
その表情をはぎ取るのはきっと俺だけれど、それまでは少しだけ、彼のままでいて欲しい。
自分の醜悪さに酷く吐き気がした。

「…そうだな。俺は先に休もうか」

俺は彼に向かって微笑んだ。
きっと、疲れた笑みをしているだろう。
自分でも分かる笑みだった。
ローデリヒがまた、哀しそうな顔をする。

「ええ、お休みなさい」

早口でそう言って、くるりと俺に背を向けた。
そのままピアノの蓋を閉める。
パタン、と、あれ程美しく響いた楽器には相応しく無い音がなった。

「お休み」

そのまま歩いて部屋のドアに手をかけると、ローデリヒに呼び止められた。

「ルッツ」

と、久しく呼ばれなくなった呼び方で。

「何だ?」

俺は振り返る。
彼を安心させるため微笑もうとして、やめた。
どうせまた彼を哀しませる事になるだろうからだ。
だがそんな事をしなくても既に、彼は沈んだ顔をしていた。

「無理を、しないで下さい」

泣き出しそうな声。

「私だって貴方の役に立ちたいんですから」

だから、独りで全部抱え込まないで、そう言って肩を震わせる彼に、かける言葉は見つからなかった。
じわりじわりと、罪悪感と後悔が俺を追い詰めていく。

「ああ、気を付けておく」

慰めようと思って言った台詞は存外と冷たい響きを持っていた。
それでも、目の前の男は僅かに微笑む。

「…お休み」

二度目の挨拶をして、俺は今度こそドアを開ける。
この話はもうしたくなかった。

「お休みなさい」

そう言った彼はきっと、またあの柔らかな笑顔で微笑んでいるのだろう。
急いでドアを閉めると、背後で聞こえた音は思いの外大きかった。

(その優しさが俺と、そしてお前自身を追い詰め、傷付けるんだ)

本当に言いたかった台詞は、声になる事なく胸の奥に沈んでいった。
きっとそれは、彼に届く事など決して無いだろう。
今までも、そして、これからも。

(彼の優しさはゆるゆると俺達の首を絞めていく)
(厄介なのは、それを拒めない臆病者の俺自身!)



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