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てのひら
14番目の月

 9月。
 残暑、というには、少し厳しすぎる暑さが続いていた。
 夜だというのに、背中を汗が伝っていくのがわかる。春臣から見える亜也子の背中にも、びっしょりと汗のあとが滲んでいた。

「あついねえ」

と、気の抜けた声で亜也子が呟く。マイクに向けて。その声は、いつもに比べて随分間延びして間が抜けていて、観客席からはほのかに笑い声がした。むしろ、観客席よりも、背中からの笑い声の方が大きい。めったに馬鹿笑いをしない本橋が、ピアノの後ろで膝を打って笑っていた。そこまで? と思いながら、春臣も小さく笑う。

「ごめんなさい、思わず本音が出ちゃった」

 くすりと笑って亜也子が付け足す。客席が、安心したように笑った。
 立ったままの客たちが、扇子で顔を仰いでいる。
 演奏者は狭いステージのスペースに詰め込まれ、楽器の熱、アンプの熱、演奏の熱、そこにいる人たちの熱、それらすべてに囲まれて、ますます熱が上がっていく。

「次の曲」

 さっきとは違う、きちんとつくられた声が、むしろ素っ気なく吐き出すような発音で、亜也子が言った。
 カウント、1、2、1234、
 ピックで思い切りストローク、歪んだAの和音。
 亜也子がぴんと腕を空へと差し出した。
 まっすぐ伸びた人差し指につられて、春臣は空を見上げる。
 もうほとんどまんまるな月が、そこにはある。
 曲が始まる直前に、ちらりと、亜也子がこちらに視線を投げる。
 それは、彼女の癖。
 いとおしい、癖。

(ひどい女(ひと))

 強く甘く、亜也子が歌い出す。

(幸せになる直前が、一番幸せ、だなんて)
(歌わないでよ)

 女々しく思う春臣に気付いていてなお、亜也子が、ひどく楽しそうに、跳ねた。

(かわして、かわして、)
(投げ出して)

 くるりとまわった亜也子のスカートが、ひらりと舞い上がり、そして、しぼんでいく。

「いちばん、すき」

 歌った声に、心の中で悪態をついた春臣を見透かすように、亜也子が振り返った。

(つかまえてもつかまえても)

 条件反射で笑った春臣を、高田が笑ったのがわかる。

(追いかけてばっかりだ)

 高田が、倉見を見て、倉見がつられて笑う。本橋が笑う。
 そして、亜也子が、笑った。
 ほんの少しも、申し訳なさが、淋しさが、混じらない笑顔で。
 すがすがしく。

(でも)

 だから結局、いつだって、許してしまう。

(笑ってるならそれで)

 春臣は、かしゃりと足元のエフェクターを踏みかえる。
 澄んだギターの音がした。
 優しく、甘く。

「最後に、おやすみなさいの、曲を」

 優しく、甘く。
 歌い出す声。
 愛おしく、――幸せそうに。
 幸せに。


20130925

Twitterのほうでいただいた「声、空、指」の3題に沿って書いたもの。
twitterで最初に出したものとは、少し変えています。なにしろ即興だったので、前半は室内で歌ってたのに、後半は外で歌ってるとか、どうしようもない間違いがあったので…(笑)



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あきゅろす。
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