てのひら
smoke gets in your eyes
「亜也子さん、駄目だって」
「……あ、」
春臣の制止に、亜也子は点けかけた火を慌てて消した。部屋は静か過ぎて、ライターのスイッチが戻るだけのかすかな音が、きちんと聞こえた。
狭い狭い、小さな防音室に二人きり。
「めんどくさいわね、禁煙」
「さんざん弾いといてよく言うよ」
「弾き終わったら吸いたい、吸い終わったら弾きたい」
「わがままだなぁ、もう」
春臣はため息交じりにそう言って、亜也子の手からライターを奪う。春臣は煙草を吸わない。ほとんど使う機会もないそれを、見様見真似で火をつけようとした。思うよりもスイッチは重く、すぐには火がつかない。
火のついていない煙草をくわえたままの亜也子が、ふっと笑んだ。
そして、そっと煙草を譜面立てに置いて、彼女は歌いだす。
亜也子の手がピアノの鍵盤をたたく。
どうして、自分の恋が本物だなんてわかるの?
と、歌う。
低く。
「……いいね」
ぽつり呟くと、ほんのわずかに彼女の唇が笑んだ。
亜也子のすぐ後ろに立ち尽くしたまま、その音を受け止める。
君が恋焦がれている時は、その煙で他の何も見えてないってことに、気付かなくちゃね、
と、歌う。
静かに。
「うん……」
恋は盲目。
そう、歌う。
恋の炎が消えてしまって、煙が、目に染みる
と、歌う。
静かなピアノ、じんわりと穏やかに、歌う声。
春臣は、力を込めて火を点ける。
かちり、
ライターの音が、消えかけたピアノの音に混じった。
あかあかと燃えた火を見つめ、そして、火を消した。
かちり、
また、音がする。
そして、それを契機に亜也子が振り返る。
ゆっくりと上体を傾けて、春臣は亜也子にキスをする。
瞳の中に、ぼんやりとまだ、さっきの炎の輪郭が揺れていた。
20120601
5月31日が禁煙デーと聞いて書いたもの。
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