短編置き場 匂えば、春告げ。 2 「先輩、ありがとうございます。気付いてくれて。立ち止まってくれて」 「……ああ」 「もっと早く、こうすればよかったのに」 潤む瞳から、それでも零すまいとするその涙は、美しく揺れてきらめいた。自分の思いを見透かされたようで、返す言葉も見つからない彼に代わって、彼女は語り続ける。 「先輩、私、本当は、全て黙ったまま、終わるつもりだったんです。先輩の知らない、先輩にとっては存在しない、私のままでも、仕方ないって」 優しい、甘い口調で語られたそれは、口調に似つかわしいとは言えない、ひどく痛々しい言葉だった。 「でも、朝、梅の枝を貰って、欲張ってしまったんです。少しだけ、欲張ってみようって、思ってしまった。でもそれだけで、充分なんです。だから、先輩、」 彼女は不意にそこで言葉を切ると、深く深く、お辞儀をした。そして、告げた。 「ごめんなさい、困らせて。本当に、ごめんなさい」 彼は、その言葉に、まるでぐさぐさと刺されているような気持ちになった。うまく出てこない言葉が、恨めしかった。 (ごめんなさい、って) (ごめんなさい、なんて) そんな科白を言わせたかったわけじゃないのに。そんなことのために、立ち止まったわけじゃないのに。 そう思ったら、何だかひどく悲しくなった。何か。何か、言わなければならなかった。彼は慌てて、口を開く。 「違う、謝らなくていい、嬉しかったから。俺は、君を知らないまま、終わらなくて、よかったから。だから、」 つい、と、下げた頭を上げた彼女が真っ直ぐに彼を見る。堪えきれなかった涙が少し零れていて、不謹慎だけれど、美しく煌めいていて、彼は一瞬、瞳を奪われた。 「だから、ありがとう、本当に」 慌てて付け足した言葉に、彼女は涙を袖口で拭うと、綺麗に綺麗に、微笑した。梅の花の匂いが風に吹かれて、彼の鼻孔をくすぐる。何だか落ち着かない気分になった彼に気がついたのか、彼女はスカートを翻して、駅の方を向いた。 「先輩、」 「何」 「最後に駅まで、一緒に帰ってくれますか」 背中ごしに聞こえた願い事を叶えるべく、彼は早足で横に並んだ。彼女は微笑み、男は小さく、頷いた。 そして、二人で歩き出した。 静かな春の予兆と、甘やかな梅の花の匂いをその身に纏って。 20090302 3月、卒業式のイメージです。 短編にある「春告げ、匂えば。」と対になる、というか、続きのお話でした。 20090514 3月から4月前半の拍手小説でした。 今更ながらですが、採録しました。 [*前へ] [戻る] |