短編置き場
匂えば、春告げ。 1
靴箱を開けたら、ふわん、といい匂いがした。自分の靴箱じゃないのかもしれない、と、思うほど。
けれど中にあったのは紛れもない自分の靴、しかも今日おろしたばかりの真新しい革靴だった。
見慣れないものはその上に静かに載っていて、甘酸っぱい匂いもそこから発せられている。そして、それを包んだ白い紙には、何か文字が書かれているようだった。
(おお)
(随分風流なモンがあるな…)
多分、恋文なのだろう。
甘酸っぱい匂いに誘われるかのように、彼はそれを手に取り、開いた。
飾り気のない、破りとられた大学ノートに書かれた文字は、線が細いのに強く、きりっとした雰囲気があり、彼はそれを好ましく思った。
そこには名前はなく、ただ、短い言葉がすっきりと書かれていた。
彼は、静かに静かに、心の中でだけ、ありがとうを告げ、そっと鞄に手紙をしまった。
そして、梅の枝を右手に持つと、今日できっと最後になるであろう駅への道を、ひとりで静かに、歩き出した。
朝、梅の花を拾った場所で、立ち止まっている女の子がいた。見覚えのある彼女は、多分朝、梅の枝を押し付けてしまった彼女だろう。声をかけようとして、ふと、右手の梅の枝に思い至った。
(……そうか、)
(このこが、くれたんだ)
何の根拠もない直感だったが、それは多分、当たっている気がした。
頭の中に、さっき読んだばかりの恋文の内容がリフレインされる。声をかけるべきなのかどうなのか、わからなかった。
あなたの生活の中に
私はいなかったけれど、
私の生活の中には
いつも先輩がいました。
春が来るのが悲しかったけれど、
梅は容赦なく春を告げました。
ご卒業、おめでとうございます。
先輩のことが
ずっと、ずっと、
好きでした。
最後に、好きではなくてもいい格好をするべきなのか、それとも、最後まで、彼女は自分の生活になかった人として、通り過ぎるべきなのか。
結局、迷いに迷って、そっと彼女の隣に立った。かけられる言葉もない。してあげられることも、ない。それでも、ただ、佇む彼女の隣に、立った。
桜ほど華やかでない梅の、白と紅との花弁が風にふわふわと揺れ、その度に甘く、酸っぱく、匂う。
「春告草、って、言うんですよ」
不意に、彼女がそう口にした。
「梅のこと?」
「はい」
そっと視線が絡み、彼女は柔らかく微笑んだ。少し腫れた瞳で。
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