短編置き場 土曜日の夜 2 「――ハル、」 声がする。 いつも通りの、強い声。 ぎくりとまた、指を引いた。 「座れば?」 「――あ、はい」 近くに見えた白いソファに座る。心地いい柔らかさのソファのはずなのに、やけに居心地が悪く感じる。目の前の小さなテーブルには、明日のライヴで歌う予定の曲の歌詞が並んでいた。 恋の歌。 幸せな恋の歌。 めくっても出てくるのはそればかりだ。 けれど一番下に見えたのは、セットリストにはない曲だった。 コードが二つ書かれた手書きの歌詞。 (――こんな字を、書く人だったのか) 美しい字ではない。けれど、その人の字だ、と、見ただけでわかるような、癖のある字。 抽象的に曖昧にしてはあるけれど、確かにそれは恋の歌だった。 顔も知らない、恋敵の、置き土産。 亜也子のための、歌。 (ずるいな) 会ったこともない「俊」に向けて、春臣は言葉を投げる。 握りつぶしたいほど、憎らしい。 けれど、そうできないほど、亜也子によく合う歌だった。 (――ずるいんだよ……) 春臣は、何もなかったかのように、机の上の歌詞を元に戻した。そして、こぽこぽとインスタントコーヒーに湯が注がれるのを、ただ黙って待った。 「インスタントでごめん」 「いえ、ありがとうございます」 大きめのマグカップにたっぷりと注がれたコーヒーを手渡される。 亜也子はキッチンのスツールにひょいと腰かけた。慣れた仕草だったが、寛いでいるようには見えなかった。 亜也子も居心地が悪そうだった。 「……どうして、来たの?」 ぽつり、と、小さく、亜也子が尋ねた。春臣は答えない。答える言葉が見つからなかっただけだ。視線が絡んだまま、どちらも動けなかった。 眼鏡の奥の亜也子の瞳は表情が読めなかった。春臣はすぐに諦めて、息をついた。亜也子がとんと音を立ててコーヒーをテーブルに置いた。 互いの間に流れる、冷たい空気。 「亜也子さんが、来なかったから」 春臣は答える。 痛いほどの視線。 「……それ、だけ?」 亜也子の、かすかに震えた、声。 「それだけです」 春臣は、亜也子に気付かれないように、静かに静かに息をついた。 確かに震えている喉から、けれど震えない、つよい声を出すために。 「――逃げないでください」 [*前へ][次へ#] [戻る] |