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俺の知らない過去のあるひと(利央)

 慎吾さんと歩いていったはずの背中が、走って戻ってくるのが見えた。準サンも不思議そうに、キャッチボールの手を止める。

「先輩!」

 準サンの声に立ち止まった先輩は、苦しそうに息をついてから、ふっと笑った。防球ネットの向こう側にいる先輩の笑顔に、俺もつい、笑う。

「帰ったんじゃなかったんすか?」
「うん、戻って来ちゃった」

 準サンは先輩とのやりとりのあと、俺に向かって苦笑しながら、犬でも追い払うみたいに、しっしっとてのひらを振る。少しだけその扱いには抵抗を覚えたけど、今はそれどころではない。先輩のところに駆け寄ると、先輩も小さく苦笑した。

「忠犬利央?」
「え?」
「しっぽ見えるよ」
「それはひどいっすよォ」

 くちびるを尖らせて答えると、先輩は弾けるように笑う。

「ごめんね、嬉しかったの」

 まだ呼吸の荒い先輩の、防球ネットごしに触った手は熱くて、どきどきした。

「先輩、慎吾さんといたでしょ?」
「……! 見てたの」
「うん」
「ごめんね、」

 曇ろうとする先輩の顔を、一瞬でも見ていたくなくて、だから俺は気付かないふりをしてえへへと笑う。

「先輩一緒に帰ろっ! 待ってて!」

 うん、と答えた先輩は、また、優しそうに幸せそうに、笑った。

 練習を終えるまで、先輩はグラウンド近くのベンチで本を読んでいた。先輩帰れるよ、と伝えると、はっとしたように先輩が顔を上げる。先輩は、ぼろぼろぼろぼろ、泣いていた。

「せ、んぱい!?」
「やっ、ごめ、油断した、泣けるこの本……!」

 言い訳がましい科白にも気付かないふりで、俺は先輩の隣に座る。準サンはジェスチャーで、先行くぞと告げて、帰っていった。

(慎吾さんと何があったの)

 みんな隠し事が下手だから、本当はなんとなくわかってる、だけど、訊きたくても訊けない。

(慎吾さんを、好きだった?)

 ……本当は最初からなんとなく、わかってた。だから、訊きたくない、けど訊きたい。
 まわりを見回して、誰も見てないのを確認してから、俺は先輩の額に小さく素早くキスをする。ちゅ、ってわざと音をさせて。

「っ、利央っ」
「隙あり」

 そうしてから先輩の涙を袖口で拭う。新しい涙はもう、出て来ないみたいだった。

「びっくりさせた甲斐があったね!」

 俺はまた笑う。先輩もつられてまたちょっと笑った。

「……好きよ、利央」
「俺も、好きです!」
「うん。……うん、ありがと」

 笑って、と願うと、先輩は笑う。幸せそうに、甘そうに、くすぐったそうに。笑うから。

「帰ろっか」
「うん、帰ろー、先輩」

 それだけでいいんだって、それだけは俺のためなんだって、そんな風に思えるから。
 手をつないで歩き出した。先輩は笑ってる。誰に向けるより甘く、笑っていた。

「利央といると、しあわせ」
「俺も、」

 えへへと笑い合って、くだらない話をして、一緒に歩く。
 先輩の高校生活の二年間を俺は知らない。慎吾さんと何があったのか、今までどうしてたのか、今はどうなのかも、全部知らない。
 でもそれより、確かなのは、

(先輩、笑ってる)
(それだけでいいんだって)

 誰も知らない笑顔を見れる、今の、俺。
 隣にいる、今の、先輩。


俺の知らない、
過去のあるひと


(今、俺を好きなら、)
(それで、いい)



20090804
企画「年の差の恋」様に提出!
参加させていただき、ありがとうございました!


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あきゅろす。
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