奴隷王の伝説
繰り返しの放棄
小さな鐘の音が、わずかに耳に届く。
ここ数年に聞き慣れたその音に耳をすませ、いつものように大きく深呼吸する。
この身を隠してくれる影から、無防備に光に踏み出す事は愚かな事だ。
だが選択肢が他にないのなら、隠れたままでいることはしたくない。
そんな小さな意地に突き動かされて、何度このドームに脚を踏み入れた事だろう。
頭上の巨大なシャンデリアが足下に大きな影を作った。
薄汚れた石造りの壁と鉄の格子に覆われた一階と、それを見下ろすように金の手摺に囲まれた二階、三階とでは何もかも違う。
きっと巨大なシャンデリアの光ですら、一階に落ちる頃にはその明るさを失っているだろうが、それでも今までの闇に比べればずっと明るい。
長い間欲してきた眩しさだが、何度ここにきても不思議とこの人工的なシャンデリアの光が好きになれず、上の階に居座る者達を羨ましいと思った事はなかった。
もちろん自分の立つこの石畳が崇高な場所であるとは思っていないし、常日頃から光を切望している。
だがそれでも下品に着飾って肥えた金持ちどもにくらべれば、マシな所に立っている気がした。
大きな音をたてて一階を覆う檻の一つが開く。
それまで自分に注がれていた多くの視線が、同時にそれたのを感じた。
小麦色の毛並みを持った肉食の猛獣。
野生の獣がうなりながら、のそりとその巨体をさらした。
心臓が早鐘をうつ。
さっと構えたナイフが、汗で滑り落ちていきそうな気がして、ちらりと目を向ける。
ナイフが手の中にしっかり握られている事を確認し、すぐに獣に視線を戻してじっと息を顰めた。
腹を空かせた獣が、ゆっくりとドームの内側をなぞるように歩く。
来ると理解した瞬間には、目の前に獰猛な爪が差し迫っていた。
感覚と経験でそれを避け、さっと一線斬りつける。
悲鳴を上げて大きく退いた獣は、再びドームの中を歩きまわる。
そして再び飛びかかってくる。
同じ行動をなんどもなんども繰り返し、着実にその肢体を切り裂き続けた。
ものの数分後、足下に血溜まりが出来上がった。
獣の瞳から光が失われていく様子をじっと見つめ、絶命したのを確認して、肺が空になるまで息を吐き出し、ようやく気が緩む。
そうしてやっと周囲のざわめきが聞こえ始める。
慣れたものだな。と小さなつぶやきが聞こえて、ふっと笑う。
慣れたものだ。
いったい何年間こんなことを続けていると思う。
頭上からおとされるわずかな金貨に目もくれず、じっと血にぬれたナイフを眺め、それから頭上を仰ぎ見た。
やはりまぶしいシャンデリアに、目を細める。
そうしてふと思い出す。
月が見たいと、誰かが言っていた。
太陽じゃなくてか。と仲間にあきれたように笑われて、彼も自嘲に似た笑みを浮かべた。
そういえばその翌日だった。
彼が骸になって、仲間の元に帰ってきたのは。
夢を語った男は死んだ。
ならば夢などみなければよいのだ。
そんなふうに子供ながらに理解して、すべてから目を背ける事を覚えた。
今になって思えば何を馬鹿な事をと思うが、わかっていてもなぜが口に出してはいけない気がして何もいえなかった。
未来の事
世界の事
家族の事
仲間の事
国の事
すべてを諦めたふりをした。
けれど。
まっすぐ、ある一点を見上げる。
目があった途端ぞくりとした何かを感じたが、気付かない振りをして睨みつける。
笑っていろ。
お前が気付かないうちに育ったこの感情をお前は知っているか。
シャンデリアの光から逃げるようにさっときびすを返し、また影の中に戻る。
ナイフの血を拭き取り、待っていた男に頷く。
「時間だ」
止まっていたすべての時を動かす時が来た。
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