捧物
波紋立つ
綺羅さま/9000枚
「じゃあ…行ってくるから」
「…かごめちゃん」
「やだな、珊瑚ちゃん!そんな顔しないでよ!」
困ったような、苦しそうな顔をする珊瑚。いや、井戸に手を掛けている少女も同じ顔をしている。
「落ち着いたら…戻るから。…犬夜叉によろしくね」
彼女の精一杯の作り笑顔は、仲間の心配を募らすだけだった。異世界へと消えた彼女に珊瑚がポツリと呟く。
「かごめちゃん、…どうしてあんな奴のこと…」
「愚問ですよ、珊瑚」
やんわり否定する弥勒の顔も穏やかな口調とは反対に渋い顔をしている。
「それは私たちが口出しして良いものではありません」
行きましょう、と珊瑚の肩を抱いて楓の小屋へと歩き出す弥勒。
空は今にも雨が降りだしそうなくらい曇っていた。
『波紋立つ』
湖畔が見える静かな森。そこに薄ぼんやりと蠢く光が幾筋か彷徨っている。
そこの中心に居るのは赤い衣の男と巫女装束の女。
「胸を…貸してくれ、犬夜叉」
甘く、低い女性の声が静かすぎる森にこだます。ゆっくりと緋色の衣に顔を寄せる巫女はとても満ち足りた顔をしているのに。
―……なんだ?
俺は胸の中に収まる巫女を一瞥した。背に腕が回る感触がして思わず身体が強張る。
そこには確かに昔惚れた女が居るわけで。哀しい死人と墓土の匂いの中には紛れもない彼女の匂いがあるわけで。
―なのに、なんだこの気持ちは
どこか落ち着かない。ただ抱き締められながら、俺は彼女に腕を回せずにいた。
しばらくして、彼女は満足したのだろう。そっと俺から離れると死魂虫に乗り、「また会おう」と森の奥へと消えた。
動く気にもなれず、その場に佇む。湖畔から水が跳ねる音がした。きっと魚か何かが跳ねたのだろう。
それによって広がる波紋はすぐに消えたのに、俺の心の波紋はなかなか収まらなかった。
不穏な気持ちを引き摺りながら森を出る。鼻は無意識に、あの少女の匂いを探していた。雨の匂いがした。
――
自室に辿り着くのに随分時間がかかった気がする。家には誰も居なくて、ただ沈黙だけが私を迎えてくれた。
ふと窓を見ると今にも雨が降ってきそうで。曇天が何処までも覆い被さっていて、遠くで雷鳴が聞こえた気がした。
部屋着に着替えてベッドに横たわる。瞼を閉じると緋色の衣が翻って消えない。
こぼれ落ちる溜め息は無意識。もし、溜め息の数だけ幸せが逃げるのなら、幸せなんて私はとうに持ちえていない。
ざあっ……
その音に目が覚める。どうやらうたた寝をしていたみたいで。上半身だけ起こして空を見上げると案の定の土砂降り。
そういえば、向こうの空模様も良くなかった。今頃あっちでも雨が降っているのかな、なんて考えて苦笑する。
切り離したいのに、心の何処かで繋がりを求めているあの場所。そして、いつの間にか私の心に住み着いていた紅い彼。
それらが無くては、どうにもならない錯覚さえ覚えるなんて、とんでもない依存症だ。
ふと枕元に置いた四魂の欠片を見ると淡く輝いていた。それが私の醜さを際立てるかのように綺麗すぎて辛い。
好きな人が、他の女の人と居るだけでも辛いのに。それが彼の昔の想い人なのだから余計に辛い。
理解できないほど子供ではないけれど、割りきれるほど大人じゃない。
自分でも分かっている。だから彼の前では嫉妬に気付かれないように振る舞うけれど、今日はちょっと無理だったみたい。
もし、あなたが私に優しくしなければ。もし、あなたが私を抱き締めなければ。すぐにあなたのことを忘れることが出来たのに。
美しいそれをそっと手に取る。
もしかしたら私はあの人にとって必要のない存在なのかな。面倒くさいだけの女かもしれない。だって毎回こうだし…
なんて、我ながら暗い考えが頭をよぎる。違うよね、と自分に言い聞かせる。この際空元気でも少しは気が晴れるはず。
どんなに辛くても、悲しくても、苦しくても、犬夜叉の傍に居ると決めたのは私。
ただ、今日はちょっと疲れてただけよね。だから一回こっちに戻って来たのよね。
自分の顔を窓に映して、笑ってみる。上手くはないけれど、とりあえず笑って見える。
うん、とひとつ頷いてから制服に袖を通す。
外は雨雲も手伝って、更に暗くなっていた。
――
バシャバシャと水溜まりを駆けながら祠に辿り着く。傘を閉じて、水滴を一回空に飛ばした。
たった数秒走っただけなのにすでに靴の中は湿ってしまっている。
困ったものだ、と思いながら祠の引き戸を開けた。
時間が止まった。
だってそこに居たのは、
「……い、…犬夜叉…?」
ふい、と顔をあげた彼と目が合う。そこにはずぶ濡れで井戸に腰かけている彼が居た。
「……おう」
「何して……って、なんでここに……」
「待ってた」
ボソリと、しかしはっきりと彼は言い切った。そして差し伸ばされた右手。
―ああ、そうか
彼が何を意図してるのか分かって、四魂の欠片を出した。
―これを待ってたのよね
「はい、…じゃあ……」
なんだか居たたまれなくなって。さっきまであんなに我慢していた涙がこぼれそうなのを堪える。
「みんなに、よろしくね…」
そう言ってさっき練習した笑顔を向ける。出来栄えは自分でも期待しないけれど、泣き顔よりはきっとマシ。
彼に手渡して、すぐに帰ろうと思ったのに。それは叶わなかった。
「…違え」
強く手首を掴まれて、バランスを崩してしまった。彼に触れられているところがやけに熱い。
「いぬや……っ」
「これじゃねえ」
そのまま引き寄せられて私は犬夜叉の胸に倒れ込む。気付けば息が出来なくなるほどに抱き締められていた。彼の濡れた衣が、私の服に浸透してくるのが分かる。
「…待ってた」
もう一度、そう呟いて彼はズルリと私にもたれかかってきた。
犬夜叉の身体が熱かったのは気のせいではなかったらしい。荒い息と、ひそめられた眉が彼の体調が悪いことを示していた。
「犬夜叉っ!?」
私の悲鳴にも似た声に彼の耳が動くことはなかった。
――
「……ぅ…あ?」
目を開くと見慣れた天井が見えた。まさか、あのまま気絶したのか。情けねえ。
「あ、気付いた?」
起き上がる気力もなく、横に視線だけ向けると困ったように微笑むかごめがいた。顔に伸ばされる手に反射的に目を瞑ると額に冷たい手が置かれた。
「熱、あるのかな」
少し心配そうな瞳。俺はこいつにそういう顔ばかりさせている気がする。
「……か、ごめ」
「なあに、どうしたの」
額に置かれた手がゆっくりと俺の頬へと降りてきた。あまりに気持ちよくて目を細める。己の手をそれに重ねると、一拍遅れて握り返された。
「珍しいね、犬夜叉が具合悪くなるなんて」
一体どれだけ雨に打たれていたの、と苦笑混じりに尋ねられ記憶を辿る。確か随分と長い間雨に晒されていたはずだ。
ばか、と一言呟かれ髪を撫でられる。急激に押し寄せてきた慕情。
「…かごめ」
「ん」
「膝、…いいか?」
「…うん」
かごめがベッドに乗ると少し軋み、身体が更に布団に沈んだ。「おいで」と言われ、頭を彼女の膝にのせると甘い香りに酔いそうな感覚に包まれる。
もっとその匂いを感じたくて、顔をかごめの方へと向ける。甘い匂いを存分に吸い込んでから、俺は瞼を閉じた。
――
ふと窓に目を向けると、雨は上がっていた。月が雲間から顔を出して部屋を淡く照らす。ベッドにいる私と犬夜叉にはその光は当たらないけど、見ているだけで安らぐ。
「……」
男の子にしては長い睫毛に端正な顔立ち。そっと頬に手を宛てると微かに身動ぐ彼が可愛い。
本人に言ったら怒られるだろうけど、弱い一面を見せてくれるようになったことが嬉しくて。
なんだかんだで私を頼ってくれる彼が、どうしようもないくらいに愛しくて。
さっきまで彼の顔が見られないほど落ち込んでいたのに、と苦笑する。
これが惚れた弱味なのかもしれない。どんなに哀しいことがあっても、彼の些細な行動1つで忘れてしまいそうになる。
乾ききった目の前の銀色の髪を撫でると、彼がうっすら瞳を開いた。
「……ぁ」
小さな呻き声のような言葉を呟いてゆっくり起き上がる犬夜叉。さらりと頬を掠める銀髪がくすぐったい。
「…わりい、重かったろ」
「ううん、大丈夫」
「そうか…」
まだどこか眠たそうな彼。なんとも言えない感情が込み上げてきて、気付けば彼の頭を抱いていた。
「っ……」
「犬夜叉……」
ねえ、あなたは知ってるかしら。私があなたを想って泣いたことを。こんなにあなたが好きなことを。
ねえ、気付いてた?ううん、気付こうとしてる?
控えめに腰に回された手は徐々に強くなっていって。しばらくしない内に二人は自然と抱き締め合っていた。
「かごめ……」
ほう、と耳を掠める安堵したような彼の声で心臓の高鳴りが強くなる。腰と肩にかかる彼の逞しい腕は泣きたくなるほど暖かかった。
「…お前、……」
「え?」
「……落ち着く」
更に抱き寄せられて少し苦しい。でもそれよりもその言葉の方が嬉しくて。何より、しみじみと切なげな声音が私の胸をついた。
「…あったけえ」
彼の鼻先が耳を掠め、髪の奥へと潜り込む。
「…ちっせえ」
肩に回っていた彼の腕が後頭部に置かれた。そして、やはり引き寄せられる。
「……柔けえ」
すっと顔を離されて私の頬に顔を寄せる犬夜叉。私は目の前にある厚い彼の胸板と抱き締められている現状に今更ながら赤面した。
少しだけ肌蹴ている彼の襟元から覗く逞しい男の子の身体が私の全身を火照らせた。
意識しちゃうともう、ダメ。ただただ目を逸らして彼に身体を預ける。
それに驚いたようで、しばし動きが止まった彼だが、視界の端で彼が微笑んだのが見えた気がした。
「顔、見せろ」
半ば強引に顎を上げられ、嫌でも甘く溶けそうな瞳とかち合う。
「あのな……、」
俺はどうしようもねえ野郎だから、これからもお前を傷付けちまうかもしれねえ。
「こんな俺でも…お前を守りてえ、って思ってもいいか?」
「犬夜叉……」
「傍に居て欲しい」
どこか不安そうな瞳で優しく髪を撫でられる。小さく頷くと私の肩口に彼が顔を埋めた。
「ん…っ」
くすぐったくて、身を少しだけ捻ると悪戯っぽく笑う彼と目が合った。
「お前、…柔けえよ、ほんと」
「ちょっ…!どこ触ってんのよ!ばか!スケベ!!」
「ん…この際否定しねえ」
窓から差し込む月明かりが少しだけ翳る。雲が出てきたのだろう。暗くなった部屋でも、彼の黄金色の瞳は美しく鮮やかに闇に映えるのだった。
――
「昨夜はかごめさまの国にお邪魔してましたか」
「…おう、まあな」
かごめと共に井戸をくぐると井戸の前には弥勒たちが居た。かごめは珊瑚と先に行ってしまったため後に残されるのは野郎ばかりである。
「こりゃ、犬夜叉!きちんと反省しておるのか!」
「かごめさまの表情を見る限り、上手くやったようですな」
「けっ、んなこたどうでもいいだろ」
いえいえ、と微笑んでいた弥勒の顔が一転する。
「常々不思議なのだが、お前、いかようにかごめさまを口説いとるんだ?」
「なにっ!?お前という奴はかごめを口説きに井戸の向こうに行くのか!」
でなければ、何故容易く寄りを戻しているのか不思議だ、と真面目な顔をして首を捻る法師と唸る子狐。
「んなわけねぇだろ!!つかおめえらに話すことなんざねえっ!!」
ふん、とそっぽを向いて楓の小屋へ向かう足を速める。短気じゃ、気が短いですな、という呟き声に更に速度をあげる。
―口説いてなんか…ねえっての…
ただ、あれが自分の本心だから。抱き締めるのも、優しくしてしまうのもかごめだけだ。
ふと昨日の感触を思い出す。甘く、冷たく、柔らかなかごめの身体はしばらく忘れられそうにない。
頬に熱が昇るのを感じながら、空を仰いだ。千切れ雲が緩やかな風に流されている。
雨はしばらくの間は、地上や俺に波紋を立たすことはないだろう。
傍に居てくれる少女の笑顔が空に浮かび、慌てて視線を前に移す。
後ろから追い付いてきた仲間を確認して、犬夜叉はまた歩き出した。
了
綺羅さま、9000枚目を踏んでいただきありがとうございました!
想像以上に桔梗さんの出番が少ないですね…
甘甘…?(´Д`;
最近雨が多かったので、犬くんにはずぶ濡れになっていただきました笑
犬くんの変貌ぶりは…なんかすごいですね←(^-^;
最後に綺羅さま、リクエスト本当にありがとうございました!
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