短いお話 主人公サンプル 青年は丑三つ時にも関わらず古宿の街中を歩いていた。 用もないのにとりとめもなく闇に包まれた街中を彷徨うなどまさしく阿呆のする代表例だが青年にとってこれは仕事なのである。 彼は深夜の街中を彷徨うことで飯を食っているのだ。 しかしながらただ街中を徘徊すれば金が貰えるという甘い仕事ではない。 未成年者が大人の遊戯に耽っていないか。あるいは酔っ払いの喧嘩の華が咲き乱れていないか。はたまた街を荒らす火種は落ちていないか。 二の腕に自警団と縫われた腕章を付けた青年に安息の夜など存在しない。 しかし今日のところ特に乱れた出来事には遭遇していない。 精々が社会に虐げられ酒に溺れた大人同士の欲求の解消を止めたくらいであろうか。 古宿は事務所といった会社にとっての拠点の集中した街である。 その為か治安はそこそこなのであるが陽が姿を消せば他の街と比べて多数の酔っ払いが出現する。 二十二で中間管理職に就き三年の月日が経過した。 実の家は代々政を司る血筋で青年は次男として産み落とされた。 四代目となる長男は家の主として、そして政の上層部に所属する。 青年はというと階級の下がる自警団のまとめ役。 親のコネだの七光りだのと陰や日向で囁かれたものではあるが第三者の目から見て断言するならば青年は確かに優秀である。 「今日は駄目なんですって! もううちにお金はないし僕の手元にもないんです! ほら分かるでしょう? 金色に輝くものなんて僕に身に付いてなんかいないでしょう?」 「何ヶ月待たせば気が済むんだ! 金がないなら腎臓売ってでも作れ!」 「腎臓なんか売ったら身体が弱くなって働けなくなっちゃうじゃないですか!」 聞き捨てならない物々しい会話だ。 周囲の人間は日常茶飯事と言わんばかりに素通りしている。そこには元素の集合体しかないと言わんばかりだ。 古宿の治安がまだ良い方だとはいえ絡まれる人間を助けようなどという菩薩のような考えを持った人間はいないようだ。 「しかも、声を聞くかぎりまだ子供じゃないか…」 少年か少女か。それすらも区別のつかぬ子供特有の可愛らしい声。 しかし僕という一人称から少年であろうことが窺える。 大通りにまで響く合唱のような声で揉めるそれに惹かれるように青年は薄暗い路地へと細長い身体を滑り込ませる。 丁度陽の当たる道を歩けなさそうな男が少年の服に手が掛かるところであった。 「何をしているのです」 青年が声を掛ければ剥き出しの腕に日常生活でつくとは思えない古傷をこさえた男が舌打ち交じりにこちらを振り向く。 「自警団か。大通りの人間から騒がしいとでも苦情が来たか?」 「残念ながら苦情はございません。しかし話をすり替えないで貰いたい。貴方はその子供に何をしようとしているのです」 「金がないなら身体で払ってもらわねえとこっちも商売上がったりなんでね。原始的ではあるが社会を知らない子供への教育中さ」 「ほう。そこの貴方。まだ成人式を迎えていないでしょうに大の大人に下賤なことをさせるほど借金を膨らませたのですか」 男がぐうと言葉に詰まる。 問い掛けられた少年は男の手を振り払って果敢にもこちらへ走り寄ってきた。 「まさか。僕の叔父の溜め込んだ借金ですよ」 「ならばこの子の叔父とやらに金の請求をすれば済む話でしょう。何故わざわざ力のない子供に返済を要求するのです」 「そいつの! 叔父が! 逃走しやがったんだ!」 嗚呼。そういうことか。 納得できる話ではないながらも納得した青年はほうと声を漏らした。 こちらへ寄ってきた少年を抱き寄せて背中へ隠す。 青年の腰を少し過ぎたくらいの長さの少年は「そういうことです」と困ったように苦笑した。 「お金は必ず返します。ただもう少し待ってもらいたいと僕は…」 「そう言ってお前も叔父みてえに蒸発するつもりだろう! 叔父のツケは甥が払うことは当然の流れではないのですか自警団さん?」 「この子は保証人なのですか?」 ぴくり。男の太い眉に皺が寄る。 「違いますよね? 未成年では保証人になることなど不可能です。貴方に借金をした叔父と血の繋がる甥とはいえ未成年に返済を要求ましてや身体を売れなどと犯罪ですよ」 男の表情がみるみる歪む。 滑稽なそれを青年に笑いを誘うものであったが決して口元を緩めてはならない。 「それが理解して頂けるならば叔父とやらを捜すことに労力をお遣いなさい。子供に大人の尻拭いをさせるほどみっともないことはございません」 男が鋭い舌打ちをした。 青年を突き飛ばそうと手を少年が背中から出てきて払い落とす。 迷いなく少年の振り下ろした手と男の手とが接触する。 ぷちっという細いものの切れる小さな音が手から発せられた。 男が呻き声を上げてコンクリートの地に手を伏せる。 思いがけない少年の行動に青年は柄にもなく目を丸くした。 しかし今の音ならば折れてはいまい。 おそらく血管一本を切断したか。その程度であろう。 現在。東京において骨折はそう驚く怪我でもないのだから血管に一本や二本どうなろうと構いやしない。 青年は今し方男の浅黒く大きな手を払い落とした少年の白く細い華奢な手を引いて路地を飛び出した。 ピザまん肉まんあんまんついでにおでんの季節。 コンビニ店員は補充等に走り回らねばならぬといういい迷惑なものであるが客からすれば冷えた身体を内から温めてくれる体内ヒーターのような存在である。 少年がもの珍しそうに店内をきょろきょろしていることが気になったといえば気になった。 薄暗い路地裏ではなく人口的な光の灯ったコンビニ内で改めて少年の容姿を見る。 青年ほどの職に就けば盗まれた宝石を捜すという依頼はそう珍しいものではない。 少年のビー玉のように丸い瞳はまるで翡翠を当て嵌めたような非常に美しいものであった。 宝石に生命の息吹が吹き込まれたようだ。 髪はさらさらと肩より少しばかり上で揺れる亜麻色。ミルクティーを連想させる。 太陽に当たったことのない病弱そうな青白い肌。 ――彼の国籍は何処なのだろうか 青年は薄い皮で包まれた具のまんじゅうをそれぞれの種類一つずつ購入して早々にコンビニエンスストアから出ていく。 人目のない落ち着ける場所といえば深夜の公園であろう。 極稀に変わったシチュエーションを愉しみたいという愚かな恋人同士が破廉恥なことをしていることもあるが今夜は無人のようだ。 太陽が主役の時間は遊び回る我が子を監察しながらも主婦たちが腰掛けるであろうベンチに夜は青年とわけあり少年とが腰掛ける。 ほっこりと温かい饅頭を手渡せば少年はまじまじと手の中のそれを見つめる。 「冷えたでしょう。お食べなさい」 「これは何ですか」 なんと。青年は大層驚いた。 この可愛らしい少年は学生間でも人気のこの食べ物を知らないと言うのか。 「あんまんですよ。こちらの黄色いものがピザまんで白いものは肉まんです」 「これが噂のあんまんですか! 僕、三つとも初めてです」 「食べたことがないのですか」 「だってコンビニはどれも高いでしょう?」 なんと。青年は大層切なくなった。 他人に切ない思いをするなど人生初めての感情だ。 少年は青年の気持ちなどいざ知らず。 はむっと控えめに口を開けてふわふわしたあんまんに齧り付いた。 直後「あつっ」と声を上げて唇を離すがあんまんを手放すようなことはしない。 しばらく口内でもごもごと唾液と混ぜ合わせてからこくんと喉を通した。 それからちろりと赤い舌を出す。 「舌がひりひりします」 「火傷したのでしょう。心配は無用。すぐ治ります」 何気なく少年の方へちらりと目を向けて青年は氷のように固まった。 卑猥淫靡婬奔淫猥まさにそんな単語が次々と青年の脳裏を悪戯に掠めていったからだ。 己が少女趣味ならぬ少年趣味でなくてよかったと心の底から安堵の息を吐く。 舌を出して涙目の少年は非常に淫らであり男の欲望を掻き立てる。 齢十五かそこらであろうになんと末恐ろしい少年であることか。 「貴方。非常に訊ねにくいことを聞きたいのだが」 はふはふとあんまんに齧り付きながら少年は「何ですか」と首を傾げる。 「…その、ですね。貴方は、その……男と寝たという経験はあるのか」 「寝たとは。父親や兄弟と寝たということですか」 「そうではない。まだ幼い貴方にこんなことを聞くのも不作法ですが、今一度はっきりさせておきましょう。男に身体を開いたことはありますか?」 は。と少年が固まる。 青年は少年の反応にほっとした。 これならば少年は穢れを知らぬ処女のようである。 「あなたはそういう趣味があったのですか」 「まさか。ただ貴方はあんなこともあったのだし少し心配になって…」 「お優しい方ですね。しかしそれは貴方の杞憂です。僕を籠絡することは並大抵ではありません」 「そういうことを口上する奴が存外惚れっぽいのです」 少年が快哉に笑う。 叔父による借金取りに追い回され碌に栄養を摂ってもいなければ学も磨けていない。 そんな少年は大抵の場合所謂不良になって街の穢れなき少女を弄んだり警察のお世話になったりしているものなのだ。 だが目の前の少年は一体どういうことなのだ。 「そっか。僕、叔父の借金を返さなくてもいいのか」 「当たり前です。本来護られるべき子供が何故そんなことをしなくてはならないのですか」 「言われてみればそうかもしれませんね。よし、決めた」 少年が新鮮な魚のようにぴょんっとベンチから腰を上げた。 さっさとあんまんを食べてしまわねば冷えて不味くなるぞと青年は心の中だけで警告する。 「僕、京都に行きます!」 「京都?」 びしっと少年があらぬ方向へ指差して選手宣誓のように宣言する。 しかし残念ながら指の方向にあるのは京都ではなく林檎で有名な県である。 「瓦町へ行くんです。一度でいい。浪漫と由緒正しい我が国の伝統を受け継ぐ瓦町へ行ってみたいのです」 「それは昔の話です。かつての京都は文字通り我が国の歴史を持ち歴史学者たちは必ず京都に足を運んだものです。しかし今は香港にあった九龍城そのもの。歴史や浪漫や伝統などと言っている場合ではありません。悪いことは言いません。行くのは止しなさい」 「法にもルールにも縛られない無法地帯の瓦町。そこには一体どのような人がいるのでしょう」 「貴方人の話聞いてますか」 再びはむっとあんまんを口に含む。 既に湯気は立たなくなっているが果たしてまだ美味いのだろうか。 「お兄さん。僕、知らないところへ行ってみたいのです。そこなら、僕みたいな子供でも馴染むことができるかも」 「馬鹿なことを。残りのあんまん肉まんピザまんを食べ終わったら事務所まで来てもらいますよ」 「何故です」 「新しい親を捜す為ですよ。貴方はまだ子供。護られるべき存在だ」 「僕には選択する自由はないのですか」 「そんなこと言ってません」 「じゃあ!」 少年は残った一口分のあんまんを口に放り込んだ。 美しい容姿と違って少しばかり行儀が悪い。 「一年だけいいのです。一年だけあの街へ行かせて下さい。そこで僕が上手くしていれば放って、困窮していれば保護して下さい」 「随分と勝手な申し出ですね」 「そうですね。でも一年だけ猶予を下さい」 「…一年後、私はどうして貴方を捜せば良いのです」 ピザまんを手に少年は年相応の笑顔を浮かべた。 「僕、そらっていいます。空野そらです」 「貴方なに下手な駄洒落を言っているのですか」 「残念ながら本名です」 「空野…そら? ちょっとよく分からない名前ですね」 「自分でも気に入ってます。それに、この名前なら、すぐ見つかりますよ」 「でしょうね」 空野そら。 まるで漫画や小説にでも出てきそうな名前である。 彼の親は何かを狙って名付けたのであろうか。 だとすれば、とんだ児童虐待である。 「私の名前は…」 「ああ、お兄さんの名前はいいです。言わなくて結構です」 青年が、予想を裏切られたような表情で眉を顰める。 「お兄さんが僕のことを見つけて下されば、僕が名前を知る必要はないでしょう」 「先程から思っていたのですが、貴方、本当に自己中ですね」 「でもこの自己中さを、僕は気に入っています」 くるりと華奢な背を青年に向けて、そらは足を動かした。 「あんまん御馳走様でした。次会うときは、無法地帯の街で!」 「空野そら。…言いにくいですね、この名前」 天空の名を持つ少年は何の迷いもなく、日本の九龍城を目指して歩む。 青年は、彼が林檎で有名な地に向かっていることを知りながら教えることはなく、少年の背が闇に消えるまでじっと見つめ続けた。 [*前へ][次へ#] |