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◆短編
蜘蛛の糸3
記憶の根底に残る映像は、すべてを凌駕する。


まだ記憶すらあいまいな頃、1人眠っていた俺は静かに目を覚ました。
普段ならそばにいる筈の『だれか』はその時はそばにいなくて、縋るようにぬいぐるみを探す。

伸ばした指が触れたやわらかい感触に安堵したのもつかの間、指で押してしまった軽いぬいぐるみは転がり、追いかける指先をかすめて遠ざかる。
ぬいぐるみが手から離れた事が悲しくて、さみしくて、切なくて、必死に指を伸ばした。

しかし自力ではほとんど動かない身体はぬいぐるみに触れる事なく空を掴み、強烈な悲しさに目元が涙で潤んだ。
どうしてこんなにも理不尽なまでに悲しいのか、今の俺にもわからない。

「落としたのか、馬鹿な奴」

不意にかけられた声をその時の俺は誰だか認識してはいない。
ただ聞き覚えのない声だという事と、その声音からは好意を感じない事だけはわかった。

子供の防衛本能とでもいうのだろうか?
逃げられる訳でもないのに的確にそれが味方か敵かを探る。

「ほら」

声の主は大股で俺に近づくとベッドから転がり落ちたぬいぐるみを拾い、軽くはたいてから俺の胸元に投げた。
やわらかいぬいぐるみは投げられても痛みはなく、ただその存在が自分に戻ってきた事がうれしかった。

「もう落とすなよ」

寝転がりぬいぐるみを抱きしめる俺を冷めた目で一瞥し、そのまま彼は去っていく。
興味がないのか振り返らない背中をただ俺は、じっと見つめていた。

これが兄さんとの1番古い記憶。
そして1番近かった記憶。


俺と兄さんの間に交流はほとんどない。
両親は俺と兄さんを遠ざけて、俺には近づかないようにと厳命していた。

兄さんは親戚の中でも話題に挙げるのをタブーとされている性質の悪い人に似ているのだと父親は言う。
その性質の悪い人は犯罪を犯して獄死した、きっとあの子も同じような道をたどるに違いない、と母親は忌々しげに顔をゆがめた。

おかしい、と俺でもわかる。

兄さんは間違いなく父と母の実子だし、その人とはまったく関係ない。
何の落ち度もない兄さんが責められ嫌われる理由は、子供じみた仲間外れにしか思えなかった。

声をかけたくて、一緒に遊びたくて、ただ話したくて、近づこうとするたびに両親に阻まれる。
家に勤めていた使用人も俺が兄さんに近づくのを止めるように命令されていた。

幼くなんの力もない俺は遠くから見るしかできなくて、憧れは日に日に強くなっていく。
遠目に姿を見れただけで嬉しくて、誰かと話している声を聴けただけでも幸せで、直接話せた時には涙が出るほど感動したものだ。

俺が兄さんに執着するようになった一因は、会ってはいけないと両親が禁止した所為だと思う。

してはいないという事は、なぜかしたくなる。
会ってはいけないと言われれば、会いたくなる。

強い抑制は跳ね返って、俺に普通ではありえない程の執着心を持たせた。

あまり出ない表情を読み取り、兄さんの機嫌がわかるようになった。
だいたいの性格や好きな食べ物嫌いな食べ物、ひたすらに観察し続ける事で情報をかき集める。

知りたかった、兄さんを。
その感情の一欠けらまで。

本人は知らないだろうけど意外と好かれることに弱く、
なかなか心を許さない代わりに、1度心を許すとすべ
てをゆだねてしまう所がある。
そして受け入れたモノにはとてもやさしい。

兄さんを大事にしてくれた家政婦が死んだ時に兄さんは荒れた。

怒り狂うままに物を投げ、放り投げた目覚まし時計でガラスを割る。
椅子の脚は折れて床を転がり、いつの間にとれたのか蛍光灯の傘は中庭まで飛んできていた。

大音響が離れた俺の部屋まで響き、それを知った両親は

「やっぱりあの子は……」
「いい迷惑だ」

と、競うように兄さんの悪口を言う。
両親の凍えるほどに冷たい声を聴きながら、俺はギュッと唇を噛んだ。

違う。
あれは悲しい感情を表す術を知らない兄さんの涙だ。
泣くだけじゃ足りなくて、強すぎる感情に身を任せてなんとか心の平静を保とうとしている。

痛々しい姿に全身が震えた。
でも俺にはかける言葉も出来る事もなにもなくて、ただ自分の無力さを責める事しか出来ない。
今もあの時の事を思い出すと自分に吐き気がする。

でも、同時に仄暗い考えが頭を過ったのもその時だ。

(今なら兄さんの心に、入り込める?)

兄さんの感情を1番揺さぶっていた存在はいなくなった。
そして兄さんは傷ついている。

それなら俺がその存在よりももっと兄さんに優しくして、理解して、支えになれば兄さんは俺の事を好きになってくれる?

ぞくりと身体は震えた。
笑顔が自分に向いたらと考えると、それだけで息が止まりそうだ。

口が締りなく緩むのが自分でもわかる。
誰にも見とがめられないように口元を手で隠すと、ふとある事に気が付いた。

(……俺、兄さんの事が好きだったんだ)

年下で、兄弟で、同性。
でもなんの違和感もなく彼が好きだと思う。

彼が別の人を愛したとしても構わずに一方的に好きでいられる自信はあるけれど、兄さんが俺をみるようになってくれればもっといい。
うん、それは、とてもいい。

「考えなきゃ……」

兄さんにどうしたら好きになってもらえるか。
兄さんのそばに居るにはどうしたらいいか。

今まで得た情報、そして兄さんの性格を加味してどう動くかを考えねばならない。
間違えたらきっともう会える可能性すら薄くなる。
慎重に、かつ大胆に。

「兄さん」

兄さんを好きだと認識した途端、名前を呼んだだけで身体に熱が篭る。
性欲は薄い方だと思っていたのに、脳内を支配するのはただ彼に触れたいという欲求ばかり。

「兄、さん」

確認するように指を這わせた下肢は、何かを期待して熱く張りつめていた。


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あきゅろす。
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