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◆短編
失われた知識 SIDE:B
「右向いて」

「うん」

「そっちは左。右はお箸を持つ方」

「お箸……、こっち?」

「そうそう」

手を伸ばし頭を撫でると、彼は嬉しそうに微笑む。
それが嬉しくてつい撫でる手に力が入ってしまうのはご愛嬌だ。

彼がここに居てくれるだけで幸せ。
嬉しい。


現在この状態からでは信じられないかもしれないが、彼はかつて天才と呼ばれていた。
彼の生活費の大半はかつて稼いだ金や、著作物の印税で賄っている。

不幸な事故で彼の知識は失われてしまった。

それまで彼を持ち上げてちやほやしていた学者達や、近所中に声高に自慢していた両親は目に見えて落胆していたのを覚えている。
どんな状態で合っても彼は必死で生き延びてくれたのに。

こんな非情な奴らの傍に彼を置いておくなんて出来ない、そう思ったのだ。



小さい頃から幼馴染みの知己は頭が良かった。
俺には読めないような難しい本を読み、集中する視線は本に釘付け。

アホの俺にはつまらなかったし、一緒に外で遊びたいのもあって無駄だと判っていながらも知己に声をかけた。

「知己、公園行こうよー」

「やだ、浩ちゃん1人でいけばいいじゃない」

パラリとページをめくり、本から視線を外さずに知己は返事をする。
判っていてもガッカリしてしまう。

先ほどまで見ていた図鑑を持って立ちあがる。
書いている内容は全く判らなかった。
絵があるだけマシで見ていたのだが、絵だけしか見ていないので読み終わるのも早い。

「……」

チラリとこちらに向く知己の視線。
1人でいけばいいと言った癖に、その視線は寂しげで口はへの字だ。
知己はずるい、そんな顔されたら置いていけないじゃないか。

「……知己と一緒じゃなきゃツマンねーよ」

俺は図鑑を棚に返すと新しい図鑑を掴み、知己の傍に座った。


中学に入学して俺は陸上部に入部した。
元々足は速かったのでもっと早く走れたら楽しいだろうなって思った。

入部当初は先輩達の足の速さやフォームの綺麗さに目を丸くしたが、それも次第に目標やライバル心に変わっていく。
彼らより早く走りたい、俺ももっと早く走りたい。
目標のある行動は楽しかった。

知己は相変わらず本ばかり読んでいた。
理解できない複雑な内容の本を、凄まじい速度で読んでいたからやはり頭がいいのだろう。

先生達はこの学校から未来の天才学者が出るのではないかと騒ぎ立て、どこかの大学からは将来有望な学生として授業を見に来たりもしていたようだ。
知己は頭が良いだけの普通の奴なのに。

皆が俺の幼馴染みを特別扱いするのが不思議でたまらなかった。


高校に入学した頃、じんわりとある事に気付き始める。

(あれ、俺知己の事好きなのかな……)

他の友達には抱かない感情を持ち、誰かが知己の事を話しているだけでイラッとした。

(あの偏屈で本が友達の知己が好き?)

この時若干絶望する。
だって考えてもみて欲しい。

男で、幼馴染みで、人に優しくなくて、頭が良くて、将来有望で

そんな知己が俺に好きだと思われているなんて知ったらどうするか?

(間違いなく絶縁されるだろうなぁ)

明確に想像が出来る将来図に俺は苦笑した。
そして気持ちを伝えるよりも友達として傍にいようと気持ちに蓋をする。

知己は高校に入ってから女子に異常にもてた。
勿論純粋に好きという訳ではなく将来的な打算が多分に含まれていた。

知己に対するストーカー行為もあって、俺が常に傍にいて守っていたが、1番の危険人物が俺の気がして笑える。
まあこの時傍にいたお陰でたくさん勉強も教えてもらえたからラッキーだったし、傍に居る理由も出来てなお一層ラッキーだった。
知己はアンラッキーだっただろうけど。

そういえば知己は高校に入ってもあんまり身長が伸びなかった。
知己の両親もあまり身長が高くないので遺伝かもしれない。

俺は高校でも続けていた陸上のお陰でスッと伸びたのが悔しいのか、自慢すると眉間に皺を寄せていた。
機嫌の悪そうな顔にドキリとした、可愛かった。


大学は別々の学校になった。
まあそりゃ知己と俺じゃ別になるのも当たり前なんだけど、ずっと一緒にいたから少し寂しい。
しかも知己は1人暮らしで実家からも出て行ってしまったので尚更寂しかった。

高校の時、知己に一杯勉強を教えてもらったお陰で勉強のやり方や楽しさを覚えた俺は、大学では教育学部に進む事にした。
目標が見えると勉強にも熱が入り、成績も上々。

電話で先生になって皆に勉強の楽しさを教えると言ったら知己に鼻で笑われた。
でもそんな知己の態度も懐かしくて嬉しい。

頑張ろうと思った。



……そんな矢先に事故は起きた。



「知己、違うよ。それは『め』。ぬは最後の所をくるんとさせて」

「……こう?」

「そうそう」

鉛筆を握りズズッと引っ張り『ぬ』を書く知己は嬉しそうに俺に笑いかけてくれる。
知己はかわらない、相変わらず勉強が好きだ。

事故の後遺症で今までの知識をなくした知己を誰もが無視した。
正確には見限ったのだろう。

知己の両親は私達では面倒見られないと眉を潜め、学者達は元々なかったもののように扱った。
俺には信じられなかった。
知己が今生きて、ここに居てくれているのに、他に何が必要なんだ?

俺の大事なものが不当に傷付けられた気がして、知己の手を握り、泣いた。

知己を引き取ると彼の両親に話を持ちかけると、彼らは飛び上がらんばかりに喜び了承した。
世間からは知己の持っている財産狙いだと噂されたが、そんなのはどうでも良かった。

誰も要らないなら俺にくれ。
それは俺が欲しくて欲しくてたまらなかった大事な人だ。

一緒に暮らしはじめて判る。
知己は生活に対してなんの問題もなかった。

1人でトイレにも行ける、朝も起きれる。
ご飯は前からあんまり作れなかったから出来ないが、頼めば風呂の掃除だって出来た。

1人で風呂に入るのは怖がったので慣れるまでは数度一緒に入ったが、今では1人で入れるようになった。
でもたまに一緒に入ると愚図るので今でもたまに一緒に入る。

男の生理として好きな奴と一緒に風呂に入るのはかなりキツイ物があったが何とか耐えた。
なにもわかっていない知己に無理強いしたい訳じゃない。

知己と一緒に居られるように自宅で出来る仕事も始めた。
先生の夢は諦める事になったが、知己と並べてつりあうものではなかったし、いっそ清々しい気持ちだ。

時々子供のようにすりつく知己に、ドキドキと心臓が破裂しそうになるけれど、最近は頭を撫でたり抱きしめて対処出来るようになった。
抱きしめるだけでは物足りなくて手を伸ばし、唇を奪ってしまいたくなるのを必死で堪える。
知己の為の居場所を俺が奪うなんて絶対駄目だ。

「浩道」

「うん? なに、知己」

「大好き」

蕩けるような知己の笑顔に俺の理性がチリチリと焼き切れていく。
誤魔化すようにギュッと抱きしめると、爽やかな石鹸の匂いがした。


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あきゅろす。
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