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◆短編
失われた知識 SIDE:A
「右向いて」

「うん」

「そっちは左。右はお箸を持つ方」

「お箸……、こっち?」

「そうそう」

大きな手の平が俺の頭をグリグリと撫でてくれる。
その感触が嬉しくて俺は彼に向かって微笑んだ。

彼も笑顔で凄く嬉しい。
幸せ。

現在この状態からでは信じられないかもしれないが、俺はかつて天才と呼ばれていた。
今の生活費の大半もかつて稼いだ金や、著作物の印税で賄っている。

事故で頭が悪くなった俺に皆が落胆した。

将来に期待していた息子の頭が悪くなり顔色を無くす両親、100年に1人の逸材を失ったと嘆き、悲しみにくれる学者達。

俺の明晰な頭脳に期待していた学者達の落胆は特に顕著だった。



小学生くらいの頃、俺は内向的で本ばかり読んでいた。
友達といえば隣の家に住んでいるアホの浩道くらい。

友達と言っても一緒に遊ぶ訳でもなくただ一緒に居るだけ。
だって本を読むのに人は必要ない。

「知己、公園行こうよー」

「やだ、浩ちゃん1人でいけばいいじゃない」

パラリとページをめくり、本から視線も外さずに俺は返事をする。
今考えると随分酷い奴だ。

「知己と一緒じゃなきゃツマンねーよ」

唇を尖らせて文句をいいながらも、浩道は俺と一緒に居た。
なんだかんだ付き合いのいい奴だ。


中学校に入る頃には勉強で俺に敵う人間など周りにいなくなっていた。
先生すらも俺に教える事は出来ず、俺は自分で持ち込んだ分厚い参考書を読んで面白くもない授業の暇つぶしをする。

この国の制度では学年のスキップが出来ないので、しぶしぶ近くの中学校に通っていた。
少し離れた場所に私立のもうちょっと頭のいい学校もあったが、結局は中学レベル、俺にとってはどんぐりの背比べだ。

浩道も同じ学校に居た。
陸上部に入ったと白い歯を光らせて笑い、全身汗だくでグラウンドを走る姿を見ながら、足の裏に発電機でもつければその無駄にありあまるエネルギーを有効活用出来るのにと考えた事を覚えている。

当時、招かれて大学の研究室に行くのが日々の中で唯一の楽しみだった。
教授や学生と討論するのは楽しかった。
討論で意見が研磨され、光り輝いていく様は快楽に似ている。

「是非うちの大学に来て欲しい!」

興奮気味に語る教授に俺は曖昧な返事をした。
だって今は楽しいけれど、もっと興味のある事が出来た時、その分野に強い学校に行った方が有利だから。

俺は、割と計算高い人間だった。


高校に入ると周りの女生徒からの視線が変わった。
今までは偏屈で高慢と避けられていたのに、将来が期待出来るとわかった途端ハンターの視線で俺を見る。

ラブレターや知らない番号からのメールは無視できたが、突然抱きしめられたり押し倒されそうになったのは無視出来る事態ではなく、常に浩道と一緒に居るようになった。

そうそう。
アホの浩道だったが、陸上の推薦と俺が勉強を教えてやったお陰で進学校だったが入学出来た。

その後もテストの度に勉強に付き合ってやったが、女生徒から守って貰ったのでおあいこだろう。

俺はそんなに身長は伸びなかったが、高校1年の時に浩道は凄く身長が伸びた。

「どうだ、俺の方が知己より15cmぐらい高い」

そう言って良くわからないボディビルダーのポーズを取る浩道は滑稽だった。

……断じて悔しい訳ではない。


大学は無難に興味のある分野の学校に行った。
入学時の順位は興味が無かったのだが、新入生の挨拶をさせられた辺り1位だったのだろう。

流石に浩道とは別の大学に入学。
自宅から通える距離ではなかった為、俺は1人暮らしをし始めた。

陸上も高校までだったのか自分の限界が見えたのか、スッパリとやめて普通の大学に行った。
そういえばこの時初めて長い時間離れた気がする。

電話で話した浩道は先生になりたいと言っていたので鼻で笑っておいた。
でも実際に先生になったら、浩道はいい先生になるだろう。

何事もなく日々は移り変わり、俺は様々な分野で功績を残した。
知識を広める為に書籍にして残したり、数多くのレポートを作成した。
招かれて海外の研究チームに参加する事もあった。


だけど、酷く空虚だった。


様々な問題を解決する度に気付く。
必要なのは俺の頭脳であって、俺ではないと。

ほんの1つミスをしただけで、まるで汚いものを見るような目で見られた。
俺だって人間だ、間違える事も悩む事もある。

だけどまわりはそれを許さない。

何かに成功しても当たり前。
むしろ成功する事が当然。
褒めるような事ではなく、早く次の成果を出せとせっつかれる。

次第にあれほど好きだった学ぶ事は、俺にとって苦痛を与える行為に成り下がっていた。


事故が起きたのはそんな矢先の出来事だった。



「知己、違うよ。それは『め』。ぬは最後の所をくるんとさせて」

「……こう?」

「そうそう」

事故の後遺症で明晰な頭脳を無くした俺を受け入れてくれたのは浩道だけだった。
皆が俺の命以外の事を心配する中で、浩道だけがそんなのどうでもいい、俺が生きているだけでいいと泣いてくれた。

俺の手を握った浩道の手はとても温かくて、俺の幸せがそこにあるのだと感じさせてくれる。
俺も少し泣いた。

その後、浩道は日常生活に支障をきたす俺の面倒を見る為に、なりたいと言っていた先生の道を諦めてしまった。
生活費は俺の貯金もあるから困らないけれど、自宅で出来る仕事を探してきて奮闘している。

時々子供のようにすりつく俺に、初めの頃は慌てふためいていた浩道だったが、最近は優しく撫でてくれたり抱きしめてくれるようになった。
慌ててくれないのは少し寂しい気もするけれど、撫でられるのも抱きしめられるのも好きだから問題はない。

「浩道」

「うん? なに、知己」

「大好き」

浩道の顔が真っ赤になるのを見て、俺は幸せだなと思う。










さて、賢明な君ならもうわかっていると思うが、俺は明晰な頭脳を欠片も失っていない。
過去の記憶も何一つ失っていないし、知識に対する貪欲なまでの欲求もそのままだ。

事故は本当に偶然で、わざとではない。
だが利用したのは事実。

浩道の涙を見て、自分が本当に大切にするべきモノに気付いた俺は、浩道がただ欲しかった。
持っている全てを捨てても傍にいたかった。

彼が自分の道を諦めてしまう事だけが予想外で、今もそれに関しては酷く申し訳ないと思っている。

だけど今酷く幸せだ。

彼の人生をめちゃくちゃにして、それでも今、幸せだ。


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