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◆短編
乳白色の誘惑1
仕事が終わり家に帰ると、軽く辺りを見渡してから鍵を開けた。
最近物騒なのもあるし、俺にはちょっとだけ警戒しなければならない訳がある。

「……、ただいま」

室内に気配を集中させながらゆっくりと部屋の中に入った。
朝部屋を出た時と別段変化があるようには思えないが、用心に越した事はない。

ズル…、ズズ…

奥から聞こえる何かが這いずる音に俺は安堵の息を漏らした。
よかった、今日も何事も無かったのだ。

「ただいま、ミルク」

床を這いずる乳白色で半液状の生物を抱きかかえると、それは持っていた小型のパソコンを器用に触手で操って文字を打つ。
カタカタと小さな音が響き、バックライトに照らされた画面に

『おかえり』

と文字が入力された。

ミルクが俺を待っていてくれている。
なんて幸せなのだろう。



ミルクは研究所で作られたスライムだ。
正確には粘菌と呼ぶのが正しいらしいのだが、特殊な生まれらしく意志を持っていた。
様々な実験の被検体にされ、グッタリとしていたのを見たのが初めての出会いだ。

俺は新入りの研究員で、なんとなく興味を持ったミルクを見ていたらケージに片付けておいてくれと頼まれた。
胸糞悪くなる話かもしれないが、実験で何体もの動物を犠牲にしてきた俺にとって、ミルクもまたその内の一体に過ぎない。
無意味に殺す気は無いが科学の発展に犠牲はつきものだし、それでより多くの命を救えるのならそれは必要な犠牲だと思っていた。

無感情にそのサッカーボール大の身体を持ち上げて、特殊殺菌された部屋に連れて行きエサを上げて終わり。
……そのはずだった。

「ん……?」

持ち上げた身体が指に絡み、しっとりと指が濡れた。
粘糸による無駄な抵抗かと思ったそれは、俺の指にポロポロと落ちる。

「……泣いてる、のか?」

正直ギクリとした。
その時の俺はミルクに感情があるなんて知らないし、まさか涙を零せるような知性を持っているとも思わなかったからだ。

慌てて部屋に駆け込むと、アルコールで消毒されたテーブルの上にミルクの身体を横たえる。
くたりとした身体の目のようなくぼみから確かに液体が零れていた。

どうみても涙にしか見えないそれは、なくしたはずの罪悪感を激しくかき乱す。
しょうがないなんて言葉で見ないフリをしていた心の壁をグチャグチャと音を立てて壊していく。

だってこれは、自分がされている実験の事をわかっている。
それによって自らが徐々に死に至るであろう事も、……全て。

「う゛、……え゛」

胃液が逆流する気配がして、慌てて口を抑えた。
なんとかぶちまけるのは堪えたが、生理的な反応で口の中に大量の唾液がたまる。
酷く、口の中が苦く感じた。

実験の為に生み出して、何の楽しみもなく、苦痛だけを味わって死んでいく。
そんな事の為に生まれる命。

「ねーよ、……そんなの」

涙で視界が歪んだ。
それが吐き気の後遺症によるものなのか、小さなスライムに向けられた同情なのかはわからないが、1度気付いてしまったら、俺にはもう実験を続けられる気はしなかった。

ふと何かの気配を頬に感じ、それを手の平で抑える。
小さな身体から伸ばされた乳白色の触手は、慰めるように俺の涙を拭い、柔らかいそれは手の中でプニュプニュとつぶれた。

「俺の事なんか慰めてる場合じゃねーだろ……、馬鹿」

自分が辛いのに俺の事を慰めるこの小さな命を、絶対に助けてあげなければと強く感じたのはこの時だ。



「美味い?」

小さく切り分けた鳥のささみを器用に身体に取り込んでいくミルクは、肯定するようにプルプルと身体を震わせた。
ミルク牛や豚よりも鶏肉が好きで、腿肉や胸肉よりも脂の少ないささみを好む。

(人間だったら痩せてるのかもなぁ)

スライムなのでプニプニプルプルしているが、それがいい。
ゆったりと撫でるとその表面は手触りがとてもよく、常日頃からミルクの体調に気をつけているお陰かと内心誇らしく思う。

研究所からミルクを連れ出すのは、酷く簡単だった。
研究所ではミルクという個体に執着がある訳ではなく、便利な実験体としてミルクを使っていたに過ぎない。

「俺の服に隠れてろ」

ミルクにそう指示すると、粘菌に似た素材を白く着色しケージにドロリと垂らして、上司である研究員に報告する。
『実験体が死んだ』そう伝えれば、上司はつまらなそうに『掃除しておけ』と指示をした。

これで終わり。

俺はわかりましたと返事をして、室内を掃除してから何食わぬ顔で帰宅した、……ミルクを連れて。

ミルクが望むなら外の世界に馴染ませてやりたかったのだが、生粋の研究所育ちのミルクにとって外はあまりにも雑多すぎた。
元々が丈夫なスライムなので病気をする事は無かったが精神的に参ってしまう事が多々あって、小型パソコンでの会話の結果、俺の家で一緒に暮らす事になり現在に至る。

名前もこの時につけた。
実験体3号なんて厳つい名前は似合わないので、乳白色の身体からミルク。
ちょっと可愛い感じすぎるかとも思ったが、存外気に入ってくれた。

ミルクはたまに申し訳なさそうにするけれど、俺は全然気にしていない。
むしろミルクと一緒に居られるのはとても楽しいのだ。

それから俺は研究所を辞め、別の仕事についた。
元々研究をしたくて頑張ってきたからその仕事から外れる事には悩みもあった、だけど俺はもうミルクのような存在を見て平静で居られる自信はない。

見ない場所で新たな犠牲者が出る可能性も大いにあったが、それからは目をそらした。

俺はずるいと思う。

それでもミルクを幸せにしてあげる事が俺に出来る全てなのだ。

「……ン? どうした」

ささみを食べ終わったミルクが俺に向かって触手を伸ばし、クニクニと蠢かしている。
もっと欲しいのかと尋ねれば、プルプルと激しく身を揺らして違うと訴えた。

どうかしたのかと顔を近づけると、ミルクは俺の頭を伸ばした触手で器用に撫でる。
わしゃわしゃと髪の毛が鳴り、くすぐったい感触が広がった。

「ミルク……」

昔を思い出して落ち込む俺を、また慰めようとしてくれていたらしい。

「ありがとな」

乳白色の表面に軽く唇を押し当てると、プルンと揺れた。
そしてゆっくりと口の中にミルクの身体が侵入し、ねっとりと舌にその柔らかい身体を絡みつける。

「ん、……ふ、ぅ、」

全身で俺の口内を味わおうとするミルクのキスは、意外と激しい。
息苦しさに柔らかい身体に軽く歯を立ててしまう。

「ぉ、…んぅ、う」

クニクニと身体を揺らしながら俺の口からミルクが出て行くと寂しくて、名残惜しく口の端から垂れた唾液を舌で掬った。

カタカタと慌ただしく小型パソコンを打つミルクを抱きかかえる。
わざわざ文字にしなくても、俺も同じ。

「続き、しよう……」

俺の腕の中でミルクは嬉しそうに身体を震わせた。

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あきゅろす。
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